『大衆食堂の研究』1995年発刊から10年
大衆食堂の逆襲
『散歩の達人』1997年4月号





ブログ版「『大衆食堂の研究』のころ」
ブログ版「『大衆食堂の研究』のころ その2」


(05年6月20日記)

『大衆食堂の研究』は1995年7月31日の発行だ。書店に並んだのは、それより2週間ばかり早かったのではないかと思う。

当時は、いくつかのテレビ番組に大衆食堂が登場することはあったが、その大部分は、いわゆる古きよき人情を懐かしむ「レトロブーム」の流れにのったものだった。趣味的嗜好的なものであり、「生活」ではなかったといえる。

そもそも大勢は、バブルは崩壊したとはいえ、まだ余韻は十分残っていたし、またすぐに景気は回復するだろうといった期待が気分として充満していた。コンニチのように出口のみえない不況下の生活を背景にして、「安酒場」や「安定食」が話題になる雰囲気とは、かなり違っていた。

おれは、すでに当時ハヤリだった「B級グルメ」にはまったく興味なかったし、好不況やレトロブームに関係なく、本書の企画を思いついた。むしろブームに飲み込まれていく食から距離をおいたところで、近代から現代の食を生活の実態からとらえるためにこそ、大衆食堂の存在がジケンであるという発想だった。

そして、大衆食堂も『大衆食堂の研究』も、たいして注目されることなく路傍の石のようなアンバイだった。読売新聞社『月刊KITAN』1995年12月号という創刊まもない、すぐ廃刊になったマイナーな雑誌などで、大衆食堂について書くことはあったが、日々は、ヒマな大衆食堂のように「地味」にすぎていった。であるから、『散歩の達人』1997年4月号「大衆食堂の逆襲」は、唯一力の入った特集で、記憶に残るものになった。

いまは亡き駒込の「たぬき食堂」のオヤジの写真がある特集扉ページ。編集部が書いたリードには、こうある。「バブル以来、絶滅の危機に瀕しているといわれる大衆食堂。しかし毎日飽きのこない味を提供し続ける在り難い「めし屋」が、たかだか数年のバブル期ごときに負けてもらっては困る」

この特集に収録されている食堂は、以下のとおり。こうしてあらためてみると、まさに大衆食堂らしく、それぞれの地域的特徴を備えているのだなあ。定食も400円台から900円ぐらいまでいろいろ。「クリック地獄」は当サイトに掲載済み、他は未掲載。

  たぬき食堂 文京区、閉店 クリック地獄
  かめさん食堂 朝霞市 クリック地獄
  竹屋食堂 荒川区 クリック地獄
  新星食堂 新宿区、現在「穂波」 未掲載
  かめや食堂 文京区 未掲載
  ぎんに食堂 中央区 未掲載
  せきざわ 豊島区 未掲載
  御徒町食堂 台東区 クリック地獄
  北一食堂 品川区 未掲載
  常盤食堂 渋谷区 クリック地獄
  大森食堂 大田区 未掲載
  いすず食堂 江東区 未掲載
  長野屋 新宿区 クリック地獄

このほか、囲み記事で「市場の食堂」として、築地場外の食堂。当サイトに未掲載の食堂が、けっこうあるねえ。どうも一度なにかに載せると、なんとなく後回しになってしまう。

特集は全9ページ。最後におれのウンチク「正しく力強い大衆食堂のめし」が載っている。

  大衆食や大衆食堂の世界はメチャたのしくタメになることであふれている。元気と可能性がたっぷりある。その魅力は、なんといっても庶民的なバイタリティが息づいていることだ。いまや、東京の心意気なんていうのは、この世界にしかない。われわれは今日がドジでもナミダでも明日を生きるためにメシをくう。家庭にあるべき、そういう生活のココロを、大衆食堂は地味にささえてきてくれた。東京の大衆食堂は、名もなき庶民の東京暮らしの光と影をしっかり背負い、喜怒哀楽のすべてをのみこんできた。ここが大都会の熱源でありリアルな東京なのだ。このふところの深さはなかなかであり、巷にあふれるアメニティやファッションだけの、飲食サービスが真似しようにもできないものがある。だから、おれは物心ついたときから大衆食堂を利用してきた。もちろん、たまには中流意識風グルメに浮気したりもするのだが、やはり正しく力強い大衆食堂のメシがいい。
  ところがある日、イイ若い男に「大衆食堂にはひとりで入れない」といわれた。なにをいうんだこのバカヤロウ「気取るな! 力強くメシを食え!」と激励とノロイをこめて熱く大衆食堂を語った本が『大衆食堂の研究』である。
  ファミレスはファミレスでけっこうである。上品で高級な生活、すばらしい。おかしいのは、一回の食事代がせいぜい数千円の世界で、大衆食堂ほどの良心もないのに「真心」だのといい、大衆食堂ほどの創造も手づくりもないものが「職人技」をほこり、「厳選」された材料だの「本場」「本物」「本格」をいい、それをまたありがたがり、大衆食堂を下品下賎下等と蔑視することだ。目先と舌先三寸の「うまいまずい」ではなく、全生活で感じ体感温度で語るべき、味の世界を、われわれはけっして忘れてはならない。
  というわけで。おれはいま、いつのまにか姿を消した「ハムカツ」を捜査中である。

言い回しがオカシイところがあるが。このときのおれの肩書は「フリーのプランナー・ライター」であり、ライターとしては、ほぼ素人だった。その後も、文章上達のオベンキョウなどやってないから進歩はない。

当時は、ハムカツ定食などは、どんどん姿を消している最中だった。いまやゴロゴロある状態で、「貧乏くさい」のがハヤリのようで、そんなものが大手をふっているのは、それはそれで楽しいが、じつにツマラナイことだ。

編集部がおれを紹介して「東京近郊の大衆食堂を語らせたら、彼の右に出るものはいない」とあるのだが、編集者というのは、こういうアオリをするから、自分も読者も本気にしてはいけないと思っている。

当時の『散歩の達人』は、いまとくらべたらかなりマイナーな雑誌であり、「大衆食堂の逆襲」は、それほど影響をおよぼしたとは思えない。が、このころから古い地味な存在だった大衆食堂や大衆酒場あるいは立ち飲み屋など、チマタの「大衆店」が話題になり、不況になじむハヤリものになったといえる。

しかし、ハヤリものというのは、これまでの全てのブームがそうであったように、経済的な一過性のものであり、ブームを仕掛けるほうは次々と二匹目のドジョウ三匹目のドジョウをねらって儲けようとするが、野に咲く花を切りとって飾って喜ぶだけで育てることはしない。結果、あとには文化的な荒野が残るだけであるし、とりわけ東京はそのように荒野と化したのだが。

ま、とにかく、「大衆食堂」というのは風俗的な呼称であるから、いろいろにカタチは変わっても、また実際に大衆は経済的にも地域的にも文化的にも多様であり、大衆食堂のカタチはいろいろあって当然であるが、近代日本食のスタンダードとして生きつづけるだろう。

元来、このような大衆店は好不況やブームに関係なく、大衆生活のスタンダードだったのである。

気どるな、力強くめしをくえ!

ご参考=
読売新聞社『月刊KITAN』1995年12月号「大衆食堂の楽しみ方」

『大衆食堂の研究』HTML版
「大衆食と「普通にうまい」」


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