ザ大衆食トップブログ版日記

大衆食堂の楽しみ方

『大衆食堂の研究』が書店にならんだのは、たしか1995年の7月中旬だった。そしてすぐ、文化放送、日刊ゲンダイ、出版ニュース社などから連絡をいただいた。いずれも、著者や本の紹介がらみのものである。

おなじころ若いフリーの編集者から速達の手紙があった。読売新聞社で創刊したばかりの『月刊KITAN』の12月号に、大衆食堂を「トラッドな外メシ屋」というぐあいにまとめたいのだが協力してもらえないか、ということだった。おれは、そのとき「外食」を「外メシ」というと知ったのだが、「トラッドな外メシ屋」と発想した、しかもいまどき手紙で仕事を依頼する若い編集者に興味をもって、とにかく仕事をひきうけることにした。

この記事は評判がよかったのだが、カンジンな『月刊KITAN』は一年もたずに廃刊になってしまった。おれの原稿は、めったにひとの目にふれない「幻の名作」になったのだ。


その本文とコラムを、ここに再録する。いまでも大衆食堂あるいは大衆的な食堂の見方考え方利用法の基本中の基本であるとおもう。

読者対象が30代に設定されていたり、すこし表現的にまずいところもあるが、そのままにしておく。なお、写真は、この記事に関係なく、ここにおれが編集した。


トラッドな外メシ屋の達人になる
(読売新聞社『月刊KITAN』1995年12月号より)

昭和30年代の「大衆食堂」の鼓動を伝えるメシ屋。
その前に立ったときから
予想のつかないドラマが始まる。
かつてここのメシを食べたオジさんオバさんたちが
1960年代と70年代の「わかもの」文化を生んだのだ。


食堂においては味噌汁が大事だと思います

あたたかさ……「人間らしさ」の真実

やさしさや親切は演出できるしマニュアル化が可能である。しかし、ひとのぬくもりはそうはいかない。

べートーヴェンは「彼らはみんな、華やかな嘘や、きらびやかなでたらめや、甘ったるい退屈だけしか知らないんです」といったそうである。「かれら」とは当時のウィーン市民のことだが、現代の「日本市民」でもいい。

より「華やかに」より「きらびやか」に変身する大都会で「かたくな」といえるほどそれを拒んだ食堂の主たちは、メシを商品とみなし、夢という野心やきらびやかな生活のしもべにする気にはなれなかったに違いない。

メシに感謝し敬意をはらい、ただ「人間らしいささやかなしあわせ」を願っていただけなのだ。みんなが食えて自分たちも食わせてもらえればいい。

これだ。このあたたかいこころが世界のものになれば平和はやってくるはずではないか。やさしさも親切も知性も、ひとのぬくもりがなくては価値がない。

無愛想や無粋に出会うことも少なくないが、ジワッとくるあたたかさが、必ずある。それが、ときには、ひとりの食事の友だったりする。人間をやるってこういうことか、としみじみ思う。


たたずまい……「流されない」大人の生き方

やみくもに流行を追い、流行に追いかけ回される日々は、むなしさが残るようになる、「スピード」だけが人生ではあるまいと思うことがある。

そして「流されない」自分らしい生き方を考え始めたとき、いままで見えなかったものが見えてくるはずだ。

ファッショナブルな変化球に目をうばわれることなく、矮小ではあるがスックと立つ路上廃棄物のような食堂のたたずまいに何かを感じ、やりすごせなくなったら、きみはまちがいなく大人である。

そもそも「大人」とは「流されない人」のことではなかったのか。右往左往するのは小人。ナウ、ホンモノ、高感度、高度情報化……。こういうキーワードにあたふたした80年代とバブルの荒波のなかを、昭和30年代を背負ったままじっと「自分の決断」をつらぬきとおしたトラッドな食堂のたたずまいは、あらためて「大人とは何か」を問うているようである。

ここには、真実、大人の交流、大人のメシがある。

かんばん・のれん……「伝統」ではなく「トラッド」といいたいわけ


だれが呼んだか「トラッドな外メシ」。笑ワセルネェと思ったが、これがなかなか深い。たとえば懐石料理や寿司。日本人には「伝統」というと「老舗(しにせ)」だの「格式」だのをありがたがる「事大主義な視線」があるようだ。この時代錯誤ともいえる視線がひとびとの可能性を閉塞に追いこむのではないか。
 
伝統というのはもっと素朴で、開放的で、自由な精神にあふれているはずだ。と考えたとき、日本語の「伝統」より「アメリカン語」の「トラッド」という言葉がふりまく感覚のほうがピンとくるのだ。

食堂のかんばんやのれんにカタカナ英語が使われることは絶対にないのだが、なぜか「トラッド」といいたくなるわけは、そこにある。かんばんやのれんにあふれる荒々しいまでの素朴さと力強い開放感。みぎる活力、意地、誇り、そして律儀さ…。

1996年ごろ。いいたたずまいの美松です「トラッドな庶民の暮らし」を「ダサい」「クサい」という一言でズタズタにした末に活力を失った日本。このわずかに残されたてがかりをたどると、ガッツのある「トラッドなメシ」にたどりつく。

メニューと料理……「うまいまずい」は客と食堂の人間関係である


グルメブームがもたらした誤解は、「絶対うまいものがある」ということである。もちろんこれは幻想にすぎない。

たとえば「いいひと」といえば、わたしにとって「いいひと」である以外の意味はない、ということを考えてみればわかる。つまり「いい、うまい」というのは、ある人間関係を表現しているにすぎないのだ。食堂を利用するときは、このことをよく知って利用しなくてはならない。店によっては、きみの口にあわないものが提供されることもあるかもしれない、しかし、現にそこにその店があるわけは、それでよしとする人間関係があることを意味する。

したがってマズいという感覚をもったとき、マズいと切り捨てるのはあまりにも人間的に幼稚すぎる。まず、その食堂の人間関係におもいをはせてみる必要があるのだ。そのことで料理や味や人間社会の複雑さを、リアリティーをもって理解を深めることができるはずだ。

食堂にドグマは通用しない。外見や情報で「いい、うまそうな店」を探すことも不可能だ。まず入ってみること。何十年も続いた食堂のメシがマズかろうはずがない




物語が生まれる空間
大都会が失ったもの、猥雑さ


ファクシミリやパソコン通信、電話回線でコトをかたづけるようになったひとたちは、手紙やハガキあるいは直接会うという手段を忘れる。

しかしわれわれは多様な方法をもっているのだから、「こころのヒダ」に応じてそれを使い分けるべきなのだ。「棄てない生活」というのは、そういうことである。「節約」だの「清貧」だのと抹香くさいものではない。

すると、空間は猥雑にならざるをえない。ところが大都会は猥雑さを拒絶する。均一な美しさと処理を求める。

そこにあるのは饒舌な文明や、「プロ」たちからの一方的なオシャベリ。押しつけられる物語はあっても、ひとびとの手垢にまみれた物語が生まれる余地はない。

しかし、たとえば大衆食堂の古い傷だらけのデコラのテーブルにそっと手をふれてみよう。「猥雑さ」とは「ひとのこころのヒダ」であることに思いあたるはずだし、そこにはいろいろな物語が刻みこまれていることにも気づくだろう。

きみの想像力が問われるのだが、新しい伝説を生むことも可能だ。こういう空間でメシを食う、そこにいとも素朴な至福のときが生まれる。




(コラム1)

もっと深く食堂を味わう その1 常連

長く続いている食堂には、毎日おなじ時間におなじ席に座ってメシを食う常連がいる。これはかなり「ディープ」な常連であるが、そうまでならなくても、食堂のほんとうの楽しみは通いつづけるということだ。何日おきとか何か月おきとか、きめることはないのだが、通う。いや何軒か入ってみているうちに、また来たくなる、また会ってみたい主人や客たちがいるところと出会えるにちがいない。そのうち、そこに行くことを楽しみにしながら日々を過ごせるようにまでなる。不思議だ。ともかく常連さんには敬意をはらおう。

もっと深く食堂を味わう その2 会話

食堂における会話は、のれんをくぐるまで、どういう展開になるかわからない。席にすわってからだって、その日その日の客によってどんなことになるかわからないという、でたとこ勝負のスリリングなおもしろさがある。特に年配のひとが話しかけてくることが多い。それは、だいたいひとりごとのようでいて、ひとりごとにしては大きすぎるぐらいの声で始まる。つまり、これは、聞こえないふりをしていればそのままで終わってもいいという絶妙なものなのだ。ここには、強制というものがない。気が向いてそれに応じると、会話はとめどもなくつづく。ご注意。

相手は人生と会話の妙手である。ウソやホラやオダテも楽しめるひとたちだ。そこのところをよく理解してつきあわなくてはならないこともある。

もっと深く食堂を味わう その3 流儀

ふだんは会社の流儀や業界の流儀に従っていても、食堂では自分の流儀でやれる。

食うときは自分の流儀でやる。そんなことあたりまえではないかといわれるかもしれないが、最近の外食産業やそれをまねたような店だと、実際は店のシステムに従って食わされているのである。たとえば、ほんとうはちっともリッチではないのにリッチな気分になってしまうのは、店のシステムにはまった証拠。アチラが仕組んだマニュアルに従わされているにすぎない。

しかし食堂では、のれんをくぐって戸をあけた瞬間から、自分の目線のくばり、あいさつの仕方、身体の動かし方、もちろん口のききかたなど、自分の流儀を意識せざるをえない。オレの流儀とそれぞれの流儀が交差するところ。相手をたてながら自分の流儀をとおす妙技が飛びかうところなのだ。

人生のテダレたちがあつまる食堂では、無言でも「無言劇」の舞台にいるようなときめきがある。
(コラム2)

食堂利用5つの仁義

ビジネスのついでに人間関係をやるようになってしまって、仁義がすたった。「仁義」なんていうとコワいおにいさんたちのものと思われるようだが、人間関係をよくたもつための文化なのである。

おたがいが気持ちよくやる。

このことをトラッドな食堂の世界は大切にしてきたし、またそれゆえトラッドな存在になったのだ。ここでは地位もカネも関係ない。ただ同じ釜のメシを食う、人聞としての仁義が必要なのだ。

ある演出家だか劇作家だかが、「英語のLOVEは、愛ではなく仁だと思う」といった。すばらしい。それでは、義はなんだ。と考えるより食堂へ行ったほうがいい。食堂利用心得は「大衆食堂の研究」(三一書房)にくわしいのだが、ここでは要約を紹介しよう。


1、食堂は通りすがりによるところだ自分の足で見つけよ

「食べ歩き」は、メディアから情報を得、店に電話をかけて場所やサービスまで聞くという悪習を残した。どこが食べ「歩き」だ。とくに電語は、家内労働だけでやっている食堂にはいい迷惑だ。気持ち良く仕事ができなくなってしまい、結果、お客にも迷惑がかかる。必ず自分の足で探す。そこから筋書きのない食堂の楽しみが始まる。

2、腹がへったときに入れ

このあたりまえのことを、強調しなくてはならない。要するに、食事のとき以外はあまりものを食わない。

3、他人のメシをおかさず、かつ自分の最大の満足を追求せよ

トラッドな食堂というのは、狭い空間に素朴なテーブルがならんでいるだけである。「私的な空間」がないところで、きわめて私的な、メシをくうことをする。これはなかなかワザのいることだ。それだけに、人生や人間関係について深く理解することができるだろう。食堂でメシ食うひとびとは、食堂の外で何をやっているかわからないようなひともいるが、ひとたびのれんをくぐるとキチンとこの正しい関係をつらぬく。

4、威張るな

大人とは「威張らないひと」のことだったが、どうもちかごろの大人は威張りすきる。他人を見下す態度が多い。威張った態度でいると追い出されることもある。

5、未熟者は食堂に授業料を払うつもりで通え

人間はいつまでたっても未熟で、おだてあげられ「中流」なんていう地位にあるなんて簡単に思いこんでしまう。金さえ払えば何をやってもいいと思ってしまう。ところが「独自の判断」ひとつできない。このカネとか地位に頼りきった生き方をあらためるためには、食堂に授業料を払うつもりで通うことだ。そして大人になる。

ヨッ大衆食堂