消滅録6 2001年2月版 07年6月11日再開。


たぬき食堂

07年6月11日。朗報! 本日、再開だそうです。ブログ版をごらんください。クリック地獄



2004年4月15日の追想


たぬき食堂 外観Web検索していたら、すばらしいたぬき食堂の写真と記事をみつけた。

たぬき食堂の写真は、何枚も撮ってあったが、なにしろ整理が悪く、引越しのたびにネガは無くすうえに、紙焼きはテレビや雑誌に貸しても戻ってこないものがあって、それも気にならないおれで、しかも貸すときは、よい写真から貸すから、手元に残ったのは、あまりよくないものばかりだった。

たぬき食堂の外観は、カラーリングに特徴があったのだが、そんなわけでカラー写真はおれの手元から一枚もなくなった。そして、かつては、おれの唯一古い財産である一眼レフで、モノクロ撮影に凝っていたから、この紙焼きだけは、たくさん残っている。(1995年撮影)

Web検索でみつけた、たぬき食堂の写真と記事というのは、その特徴ある外観がカラーで、キッチリ写っている。記事も、すばらしい。

「電脳六義園通信所」「さらばたぬき食堂」である。ぜひ、ご覧いただきたい。

写真は、長尾さんが亡くなってから2年以上すぎているようだが、まだ建物はそのままだったらしい。たぬき食堂 ショーウィンドー

記事中の「男なら大衆食堂で飯を食え!」は、拙著「大衆食堂の研究」が1995年夏発売後、「週刊プレイボーイ」の依頼でまとめた記事のタイトルだ。おれの「フリーライター」初仕事ともいえるもので、編集担当者にだいぶ直された。

ああ、懐かしい。

この外装、全部、長尾さんの手づくり。この、「ショーウィンドー」も。黒板の「御献立」が、しみじみ懐かしくも悲しい。
(2001年2月掲載、02年5月10日改訂)

在りし日のたぬき食堂ご夫婦ああ、駒込のたぬき食堂のご主人
長尾勇さんが死んじまった。
悲しい。






1995年に奥さんが亡くなってから、長尾勇さんは一人で昼だけの営業をしていた。しかし、2000年夏に身体の不調を訴え閉店。11月5日逝去。74歳。黙祷。
(写真上は長尾さんにいただいた。1995年1月、最後になった、ご夫婦と家族そろっての新年記念撮影)

昭和26年(1951)、[酒場たぬき]創業。昭和37年(1962)、[たぬき食堂]へ転換。
「なぜ食堂にしたの?」
「女房が、飲み屋のおばさん、といわれるのがかわいそうでね」。
1995年その愛妻に先立たれた。

「食堂をやめたいと思ったこと、あるでしょ?」
「うーん、あんたが本に書いたから、やめられなくなったんじゃないか。だけどね、バブルのとき、ここを売りそこねたなあ」。

富山県生まれ。海軍から復員。不動産鑑定士に船長など資格趣味多種多様。店舗の造作など自分でやっちゃう器用。働き者、洒落者、頑固者、絵になる昔のオトコ。家族をふくめ、たくさんのいのちを養った。

とん汁350円、とん汁とごはん550円、日替わり定食700円、サバ味ソ煮350円、おひたし200円、味付のり50円、カレーライス550円、なぜか怪しげなビーフシチュー400円……。

食堂ごと無名文化財として、ここに記す。

たぬき食堂店内
たぬき食堂は、2000年夏まで、東京都文京区本駒込5-2-2にあった。
店内の写真は1996年ごろ撮影。神棚の下の黒板にメニューが書いてあった。4人がけテーブル6台。

(読者のみなさまからは、たくさん哀悼の言葉をいただきました。じつは、ビックリしています、ありがとうございます。掲載は割愛させてもらいますが、テレビ番組制作のために一緒に何度か長尾さんを訪ねたことがあり、おれより長く長尾さんにしつこくつきまとって撮影を敢行した演出家のMさんからは、「まさに池波文学に出てきそうな、洒落者でガンコで、それでいて、深く優しいお人柄……」と便りをいただきました。まったくそのとおりで、もう会えないと思うと、さみしい。「いつも近所まで行っていたのに食堂に気づかなかった」「いつでも行けると思っていたのに、なくなって残念」というような声が多いように思います。これからは、こんな後悔をしないですむよう、目と鼻をはたらかせ、それらしい食堂をみつけたら、すぐ入っちゃいましょう。)
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