「ふるさとの味」考

大崎菜、カタクリそして山菜は春風のときめき

(04年3月9日版)

おれには、ふるさとを懐かしむ気持は、あまりない。おれにとって、ふるさとは、懐かしむものではないのだ。つまり、自ら「田舎者」を名のるように、ふるさと=田舎は、自分の肉体なのである。

田舎者の感覚がぬぐいがたく肉体にしみついている。どうじゃどうじゃ、おれは、田舎者だぞ、といって離れない。なかでも、その感覚が、もっとも鋭く、たまらなくコノヤロウと思うほど反応するのが、味覚であるようだ。リクツをいえば、「ふるさとの味」という味はないが、「ふるさとの味覚」は厳然とある。

その味覚が、もっともうずく季節がきた。すでに始まっているのだが、「大崎菜」という菜っ葉のおひたしから、そして初夏までのあいだに続々と登場する山菜類は、たまらん。これらのほとんどは、鮮度の問題もあって、ふるさとでなければならない。そのことは、かつて新潟日報の連載「食べればしみじみ故郷」に書いて、当サイトにある。

参考リンク当サイト=食べればしみじみ故郷=春は野菜

とくに大崎菜は、もう、このおひたしの味は、菜の花や小松菜やほうれん草などでは、とてもおいつかない。ああ、大崎菜のおひたしをつまみに、キリッとした清酒をゴックン飲みたい。ああ、大崎菜のおひたしで、めしをガバガバ食べた〜いよ〜。

大崎菜は、酒で有名な山、八海山の麓の大崎の地名からきている。菜っ葉にかぎらいないが、野菜は、栽培地が数十メートルちがっても、味が違うのが普通である。だから、その地名が大事なのだ。

しかし、現在のスーパーで売っているような、アクのあまりでないほうれん草や小松菜などは、そういう野菜の個性を骨抜きにして、かつ成長がはやいように品種「改良」されたものだから、もはや産地は意味をなさない。だいたい、こういう野菜は、おひたしにしても、ちっともうまくない。ああ、大崎菜のおひたしがくいたいよ〜。厚みがあるけど、やわらかい葉、甘くて、テキトウに苦味もあって、香りも……。「瑞々しい」という形容は、この大崎菜のためにあるようなものだと思う。

と書くが、じつは、もう40年ぐらい食べてない。それなのに記憶は鮮明なのである。そして春めくと、その記憶がうずくのだ。それは、あるいは、この大崎菜というのは、まだ雪があるうちの新春早々一番に出回る新鮮な野菜だったからかも知れない。しかし、あの味は、代替がない。

参考リンク大崎菜関係=魚沼通「地野菜大崎菜の栽培農家」  大和町・寒造り真剣勝負・大崎菜おひたし

と、いてもたってもいられない気分のところへ、ふるさとの友クボシュンさんから電話があった。「おい、今年は、もう雪がないて、春がはやいて」そして山菜料理がたっぷり食べられる民宿の名前をだして「行こうそ」といった。おお!行く行く、行くともよ、二つ返事だ。そして、発作的に、これを書いているのである。

じつは、クボシュンさんには、もう一つ気になっていることがある。大好きなカタクリが、この春は、いつ開花の時期をむかえるか、なのだ。六日町には、カタクリの群生地が多い。みごとな群生が見られる。そして、カタクリの花が見られる頃は、すでに大崎菜はおわっているが、山菜の真っ盛りを迎えるのである。うーむ、となると、酒もうまい季節だ。薫風と山菜と清酒。おっとカタクリも、だ。おっと温泉もあった。

クボシュンさんが撮ったカタクリの群生

ところで、おれのふるさとは、新潟県南魚沼郡六日町。大崎菜の産地の「大崎」は、となりの大和町だが、こんど六日町と大和町は合併して「南魚沼市」になる。ま、「市」になっても山里の地だ、山里人(やまざとびと)の住むところなのだ。

しかし、「ふるさと」という言葉は、どうも好きになれないな。やはり「田舎」のほうがよい。「田舎の味」「田舎の味覚」のほうが、ピッタリのような気がする。

参考リンク
ふるさと魚沼の自然がたっぷり見られる=魚沼の四季
ふるさと八海山のライブ写真が見られる=ゆきぐにネット
ふるさと六日町=六日町観光協会 大和町観光協会
当サイト=六日町満足泥酔紀行
当サイト=ふるさとの山「坂戸山」 ふるさとの川「魚野川」



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