新潟日報連載11-15 11、春は野菜(02年4月1日) まずは雪どけとともに食卓にあがる青菜のおひたしである。どんぶりに山盛り。そりゃあ春じゃあ、どーんと食べろ、というかんじで、その鮮やかな緑色を見ただけで興奮した。 名前は忘れたが品種なのか産地なのか、青菜にも呼び名が何種かあって、味も微妙にちがった。 いまわたしが住んでいる関東の、青菜といえば小松菜だけとは、くらべることもできない。味にいたっては段違いで、小松菜なんぞは、口にするのも腹立たしい。 もちろん小松菜もかつてはもっとうまかったのかもしれないし、故郷の青菜の現在は知らないのだが。 わたしの記憶にある青菜のおひたしは、春の日差しのようにやわらかく、あまくあたたかである。 そして、たしか青菜のあとに、山菜がつぎつぎ登場した。 だがしかし、竹の子をのぞけば、小さいころはさほどうまいと思った記憶がない。高校生ぐらいになって、わらびやこごみや木の芽のおひたしをどんぶり一杯、がつがつ食べるようになった。 これらは、やや苦味ばしったオトナの味で、小さい子供にはわからんのではないかと思う。 わからんといえば、ついにそのうまさがわからなかった、つくしがある。 地表から湯気がたつように晴れた日には、上越線や魚野川の土手でつくしをとった。これは食べるためというより、遊びである。それを持って帰ると母が選んで酢の物にした。母の料理がへただったのか、うまいと思ったことはない。 それも小学校低学年ぐらいまでのことだ。そのうちつくし採りはやらなくなったし、食卓にあがることはなくなった。 いったいあれはうまいものなのかと、いまでも思う。 とにかく問題は、青菜とこごみとわらびと木の芽のおひたしなのだ。たとえ故郷から買って帰っても、わずか数時間の差が味に出てしまう。産地でなければだめだ。 春になると、もっともっと食べておくべきだったと、悔やまれてならない。 12、ネコまんま(02年4月8日) 季節とは関係ないのだが、いまわたしの周囲で騒々しい話題が一つある。ああだこうだ言いあっていても、まったく結論が見えない。 俗に「ネコまんま」というものがある。もちろん人間が食べる。 わたしが育った家庭では、それは、めしに鰹節と醤油をかけたものだった。だから拙著『ぶっかけめしの悦楽』では、そのように説明した。 ところが、めしに味噌汁をかけたものをネコまんまと呼ぶ、地方というか人たちが、たくさんいる。わたしにとって、それは、「イヌまんま」か、ただの味噌汁ぶっかけめしである。 正式な調査をやったわけではないが、インターネットなどのアンケートによれば、やや味噌汁ぶっかけめし派が多い傾向が見られる。しかし、地域的特徴などは、なかなか把握できない。新潟県人のあいだでも両派にわかれる。 だから、自分のところではこうだったと話題になる。方言の話のように育った地域や家庭によって違うから面白いのだ。 いまや、埼玉県の熊谷駅ビルの弁当屋の「ネコまんま弁当」や、福島県猫魔スキー場のレストランの「ネコまんま定食」は評判である。ちなみに、これらは、鰹節派だ。 めしに汁をかけて食べる風習は近代になって「行儀が悪い」ことにされたが、室町時代には武家の正式の作法だったし、天皇や公家も食べている。茶道の懐石では伝統的に、例えば辻嘉一さんなどは、近年でも積極的に採用していた。そもそも丼物のほとんどは、この系譜なのだ。 汁かけめしは、めしをうまく食べる料理の原点にあり、とりわけ生活者にとっては、自然な食べ方だった。 そして、「行儀が悪いからやめなさい」と言われても、けっこうみなさん、うまいうまいと食べているというのが、今回の「ネコまんま騒動」でわかった結論である。 はたして、あなたは、何派? ご参考=ねこまんま騒動 13、上野駅「グラミ」(02年4月15日) かつて上野駅には数えきれないほど食堂があった。そこで多くの新潟県人が旅の疲れを癒し、あるいは別れを惜しんだ。 上野駅大改造で、ほとんどはオシャレで実務的な飲食店に変わったが、地下の一隅にわずか、新潟県人との絆や人情を伝える駅食堂が残っている。 たたずまいも昔ながらの「グラミ」。ザーサイ、ニラなどがたっぷり入った塩焼そばが人気の店だ。初代店長の娘、五十八歳の藤井暎子さんにとって、ここは思い出の詰まった故郷である。 暎子さんが小さいころは、夜行列車を利用して上野駅に着くと朝食をとるひとたちが多く、食堂は早朝五時ごろから夜遅くまで賑わっていた。 そのころの縁で、家族同様の付き合いが続いている県人がいる。 丸山マチ子さん。新潟市沼垂の出身、千葉県木更津市に住む、五十八歳。半世紀も前のころだろうか、マチ子さんは兄と一緒に父親に連れられて上京し、朝食をすますと関西旅行のため東京駅へ向かった。しかし兄は迷い子になり、暎子さん家族が預かったのだった。 また、いま茨城県の方から野菜を納めている飯塚(旧姓小池)みよ子さんは昭和二十五年生まれ。十七歳のとき、故郷の関川村が大洪水に襲われ被害にあい、家計のためにグラミに住み込みで勤めた。狭い食堂のテーブルの上に寝て早朝の開店に備えたりして妹を大学へ。 さらに暎子さんの一人娘華さんは、石油ガス会社で六年間新潟地区を担当していたから、新潟県人との家族同様の付き合いがたっぷりあって、話はつきない。 こんな上野駅食堂ならではの人情物語が無数にあるはずだが、すべて駅の大改造で捨て去られそうな昨今である。 ご参考=この<グラミ>は11月中に立ち退かされることになり、27日に閉店しました。こちら。 14、六日町の万盛庵(02年4月22日) 東京へ出るまでは、そばといえば万盛庵のへぎそばと、うちでゆでる十日町の乾麺だった。 つまり普段は乾麺で、万盛庵のへぎそばは、特別のことがないと食べられない、ハレのものであり、予約が必要だった。 なにかの宴会の最後には、必ずへぎそばだった。そういうことでもないと食べられない。小さいころは、大人たちが酔っ払う様子と座敷の隅に積まれたへぎの入れ物を眺めながら、宴会の終わりが待ち遠しかった。 だから長い間、わたしの心の中では万盛庵の存在は特別だった。あのへぎそばを思い切り食べられるなら、万盛庵の子供になってもいい、なんて考えたこともあるように思う。ま、小川屋という菓子屋の子供になりたいと思ったこともあるのだが。 そもそもが、外食などというのは余程のことがない限りするものではなかったから、万盛庵に入って食べたのは高校のころ二回ぐらいの記憶しかない。一度はラーメンで、一度は初めてのもりかざるだったはずである。 にもかかわらず、店のたたずまいが印象に残っているのは、へぎそばが特別のものだったことに関係あるだろう。 現在の本店がそうなのだが、わたしとしては、増改築は加わっていても、ちかごろの精神修養場のような「キリッ」とした蕎麦屋より、昔ながらの大衆食堂のようにわい雑なところがある、この万盛庵に親しみがわく。 いまでは、へぎそばは、ふらりと入っても食べられる。ただし、最低二、三人前はあるから、一人では無理だ。帰郷の旅のときは、ここでもり二人前にビールや酒でくつろぐのが楽しみである。 ご参考=写真ほか、こちらもごらんください 15、海苔のふるさと(02年5月13日) 四十年前の上京したてのいまごろは、なぜか浅草海苔のパリパリでくるんだにぎりめしをよく思い出した。 たびたびの空腹がそうさせたのか、あるいは、春の遠足の思い出と一緒だったかもしれない。海苔は、昔は食べる前に火であぶったのだが、いまは「焼き海苔」で流通しているし、「浅草」がつくことは少ない。 それにしても「浅草海苔」だったから、故郷は浅草なのではないか。それなら海苔にぎりの故郷も浅草なのか。とまでは考えたことはなかったが、「品川巻」は海苔が巻いてある。 その品川の南、大田区大森は「海苔のふるさと」を名乗っている。なんと、京浜急行大森町駅周辺には、大小の海苔問屋が八十軒ぐらいはあるそうだ。 そのうちの一軒、下金(シモキン)海苔店は江戸期からの暖簾で、山本海苔の高級贈答用の海苔を扱い小売もしている。社長の四代目、平林政雄さん七十一歳、後継者の延昭さん四十三歳に話を聞いた。 大森海岸での海苔の生産は江戸期から盛んで、だからまた問屋もたくさんできた。昭和三十七年、わたしが上京した年に海岸は埋め立てられたが、問屋は残り海苔の一大集散地を築き上げた。 浅草では海苔がつくられていたことはない。昔は大繁華街だった浅草へ運んで売ったから、浅草海苔として知られるようになったらしい。 意外だったのは、海苔が広く家庭に普及したのは、戦時の配給からということだ。戦後、海苔の生産が三十億枚から現在の百億枚になるあいだに、海苔にぎりは、わたしの「ふるさとの味」になったのである。 ご参考=こちらもごらんください 新潟日報連載もくじ |