寛永年間 (1624〜43) |
『新編 大言海』の「一膳飯」の解説によれば、『見た京物語』に「一ぜんめしノ看板アリ」との記述があるとのこと。つまり寛永年間の京都には、一膳飯屋があったらしい。ちょっと文献がみつからないのだが、たしか室町期の将軍義輝のころ(1550年前後)、京都には、すでに「煮売」があったはず。そこでめしを提供していたかどうかわからないが、江戸期の「煮売屋」は、地方によっては、めしを提供する店のことだった。ということから類推すれば、このころ京都に一膳飯屋があってもおかしくない。 |
寛保3年 (1743) |
諸資料によれば、このころすでに江戸の人口は100万人をこえていて、男性は女性の1.5倍以上と推定され独身男性が多く、食べ物屋繁盛の背景になっている。 |
文化10年 (1813)ころ |
『定本 江戸商売図絵』(三谷一馬、立原書房)などに紹介されていて、広く知られていることだが、江戸では一膳飯屋が繁昌していた。立派な店構えもあり、看板類に「一ぜんめし」「どんぶりめし」などの文字が見られる。 |
天保12年 (1841) |
初代広重画「木曽街道六拾九次 六十三番場」の絵に一膳めし屋2軒。一軒は「いせや」の看板に「一膳めし 酒」のちょうちん。一軒は「そばきり 一膳めし」のちょうちん。(03年9月28日記。『江戸 東京 グルメ歳時記』林順信・雄山閣) |
弘化3年 (1846)から |
慶応4年(1868)まで刊行の山東京山ら作の『教草女房形気(おしえぐさにようぼうかたぎ)』にはドンブリで茶飯をくわせる担ぎ売りの絵がある。また他の著作にも麦飯の振り売りの記述がある。場所を固定せずに町内を振り売り担ぎ売りで歩く「飯屋」は、「小民の生業」として江戸前期には、「煮売屋」など、すでにあったものと思われる。 |
文久2年 (1862) |
埼玉県川越市の『川越市史 史料編近世U』に、「飯煮売仲間願書」というのがある。これは、当地の飯煮売仲間が、町方御役所宛に出したもので、白米の下落しているので、めし代を値下げしたいとの願書だ。「鉢飯 壱人前」これまで四拾八文を四拾文に、「丼飯汁付 壱膳」これまで三拾八文を三拾文に、値下げしたいとある。 |
明治政府発足(1868年) | |
明治30年代 (1900前後) |
大正1年(1912年)刊行の『千曲川のスケッチ』は、島崎藤村が明治32年から7年間、長野県小諸で過ごしたときのものだが、そこには「一ぜんめし」という項があって、「揚羽屋」という一膳飯屋と藤村の交流を書き綴ってある。この揚羽屋は健在だ。 |
明治44年 (1911) |
いまの東京銀座八丁目に「カフェ・プランタン」が誕生し、「カフェブーム」が都会を席捲する。これは「女給サービス」つきの「西洋料理店」ということのようだったが、このカフェから食堂や洋食屋あるいは喫茶店へ転向した店が多かったようだ。 明治後半から末期は外食の分野で「西洋料理店の大衆化」がすすみ、浅草などの盛り場を中心に、名前に「バー」「カフェ」がつく大衆的な洋食屋が次々と生まれた。たとえば浅草のヤマニバー(現在のヤマニ食堂の系譜?)や神谷バー(明治13年創業と伝えられる)などの系統であり、のちの須田町食堂-じゅらくなどは、この系譜といえる。 |
大正4年 (1915) |
新宿駅南口前の長野屋食堂開店。 |
大正5年 (1916) |
東京芸大中退のくえない画家、アナーキスト、望月桂は、谷中根津の交差点から、言問通りを上野桜木の方に向かって登る善光寺坂の途中、現在の「クスリの松田」の場所に、一膳飯屋「へちま」を開業。一年たたないうちに閉店。大杉栄らの溜り場だった。 |
大正7年 (1918) |
内山富太郎さんは、現在の東京・渋谷区笹塚にカフェを開業、まもなく食堂に転向。これが現在も同じ場所にあって富太郎さんの4男・繁雄さん夫妻が経営する常盤食堂である。 『日本評論』大正7年5月号、「大阪市に平民食堂が設置される」という記事がある。「下級階級の生活難を緩和するの一策として、大阪市外今宮村附近に近々平民食堂を設置するの計画だそうで、これは大阪府警察部の企画だと云ふ」「多数の貧民に衛生と経済とを考量した合理的の食堂を開設すれば、衛生上風俗上、大なる効果を齎すであろうと云ふ事である」。この記事は計画段階のもの。公営の食堂は治安を目的に企画されたといえる。 大阪に市立の簡易食堂誕生「飯4銭、雑煮2銭、鯖3銭、膾5厘、香の物5厘」。東京神田にも、市立の簡易食堂が生まれたとの説があるが、確認できない。当時、このような食堂は「公益食堂」と呼ばれ、第一次世界大戦直後の物価騰貴や米騒動を直接の動機として誕生した。 |
大正9年 (1920)〜 |
当時の東京市牛込区神楽坂に市立の神楽坂食堂開業、続いて、大正12年3月に神田食堂。同9月1日に関東大震災。ますます「公益食堂」の必要性が強まる。大正13年、九段食堂、そして昭和7年(1932年)4月開設の深川食堂まで、都内16か所にできた。 |
大正12年 (1923) |
9月1日関東大震災。『現代』12月号「震災後俄かに起こった新商売」によると、大道露天の商売では「一皿十銭乃至二十銭のライスカレイと大盛一杯十銭の牛めし、牛どん」は「飛ぶように売れた」。 |
大正14年 (1925) |
当時の東京市公衆食堂のメニュー。定食、朝10銭、昼15銭、夕15銭。うどん、種物15銭、普通10銭。ミルク 牛乳1合7銭。パン ジャムバター付半斤8銭。コーヒー5銭。うどんもあり、すでに「和洋折衷」メニューなのが面白い。 戦前は、とくに地方では、「うどんそば屋」といえば「食堂」のことだった。白めしが常食ではない庶民が多かったからだ。いまでもそば屋の看板をあげながら、「ナントカ食堂」と名前のある「そば屋」がある。 |
昭和2年 (1927) |
流行語に「大衆」。 |
昭和3年 (1928) |
東京市の調査では、西洋料理店1733軒、西洋支那料理店521軒、和洋料理店400軒、汁粉餅屋1632軒、蕎麦饂飩屋1573軒、おでんや1001軒、すしや959軒、日本料理店616軒などにまじって、めしや1427軒である。しかし、「食堂」という表記分類はない。 |
昭和4年 (1929) |
この年に刊行の「東京名物食べある記」には、東京市営の公衆食堂<神田橋食堂>と<昌平橋食堂>が登場する。 |
昭和5年 (1930) |
カフェテリア式食堂が、東京では大正末に京橋に出現。吉岡鳥平『哄笑極楽』(昭和5年)には、大阪・戎橋の「カッフェテリヤ式食堂‐南海食堂」がある。ライスカレー、ロールキャベツ、コロッケなどが見られる。 |
昭和7年 (1932) |
東京・墨田区両国の下総屋食堂開業。現在も同じ場所同じ建物で二代目富岡昭馬さん夫妻がやっている。 |
昭和8年 (1933) |
この年発行の『大東京の写真案内』(博文館)の「大東京の統計色々」には、市営食堂数23とある。 |
昭和12年 (1937) ころ |
青森県弘前市の食堂・菊富士の前身、昭和2年開業のカフェミドリは、この年、大衆食堂に業種がえした。 このころから、「低廉なる民間食堂が多く」なったため、東京市営の食堂は減少している。最多16か所あったのが、5か所である。民間の大衆食堂の時代だ。しかし暗雲の蘆溝橋事件、力ずくの政治で日中全面戦争の愚かな道へ。 |
昭和13年 (1938) |
5月、東京府料理飲食業組合大衆食堂部ができた。これが現在の東京都指定食堂協同組合の前身である。これで大衆食堂は外食産業として本格的な発展をするかと思いきや、前年からの日中戦争のほうが本格化。 |
昭和15年 (1940) |
ああ、節約ムードのなか、食堂の米飯使用禁止となる。 |
昭和16年 (1941) |
4月1日ついに六大都市でコメは配給制に。外食券制がひかれ、外食券を持っているひとだけが食堂を利用できることに。5月、東京府料理飲食業組合大衆食堂部は外食券食堂部になる。いわゆる外食券食堂の時代が始まった。そのようなすきっ腹の不足状況と不足対策のなか、12月8日真珠湾攻撃、太平洋戦争へ。 |
外食券
昭和18年(1943) ん?遠藤哲夫生まれる。