台東区谷中 望月桂の一膳飯屋「へちま」のあと (05年3月20日版) この写真は、1997年ごろのものだ。『大正自由人物語 望月桂とその周辺 』 (小松隆二著、岩波書店)を図書館から借りて読んで、望月桂さんが1916年ごろ、「クスリの松田」の位置に、一膳飯屋「へちま」を営んでいたことを知り、行ってみた。 本には、「へちま」のなかの様子がわかる写真があったように思う。記憶だが、小さなコの字型のカウンターのなかに望月桂さんが立っていたと思う。そして、「クスリの松田」は間口も敷地の大きさも「へちま」と同じであるという趣旨の説明があった。 「クスリの松田」は、間口約1間半か2間のこじんまりとした店である。その前に立って、「へちま」のなかの写真や本に書いてあったことを思い浮かべると、大正時代の1916年ごろのその店、そこに集まった人たちが、湧き出てくるような気がしてコーフンした。 ギャラリープラザ長野のサイトの「望月桂展」から横顔を引用すると、つぎのようなアンバイである。 望月桂は、明治20年東筑摩郡明科町に生まれ、松本中学校から、東京美術学校西洋画科を卒業しています。同期には、池部鈞、藤田嗣治、岡本一平らがおり、卒業後も親しく交遊を続けました。生まれた明治20年は1887年だ。これではわかりにくいのだが、望月桂さんはアナーキストの歴史に名を残すバリバリで、大杉栄さんとの共著もある人物だ。もっとも、社会主義者やアナーキストに対しては偏見が強いのだが、望月桂さんは、この横顔のような活躍をした。ようするに、まさに「大正自由人」だったのだな。 『大正自由人物語 望月桂とその周辺 』 によれば、こんなぐあいだ。 望月桂さんは、いまの芸大を出たが食べるのもままならず転々とする。1914年9月、小石川区(現文京区)関口町にあった一膳飯屋「たぬき」の経営者倉沢理一と知り合い、「たぬき」のすぐ裏に、細々とやっていた印刷所を移転。翌15(大正4)年、28歳で結婚。住まいは駒込動坂町222。印刷所は「営利の才」なく、その年末に閉鎖、借金を抱える。 翌16年5月、「たぬき」をヒントに、「たぬき」の経営者の妻で「かつて情を通じた」艶子も手伝って、神田区猿楽町1−4に氷水屋「へちま」を開業。「御茶ノ水の明治大学下、現在の錦華通り、住友銀行の並びに位置していた」 氷水屋とはいえ「営業主目及特長」は、「酒、めし、肴、氷水、其他、乙で安直で美味くて気分がいい」もの「現代的あらゆる要求に叶うもの」ようするに「一膳飯屋風の広いメニューを最初から用意していた」 順調といえたようだが、借金の返済もあり、「小さく、場所も少々悪くとも、家賃の安い」ところへ移る必要があって、その9月に、この場所へ移転し一膳飯屋「へちま」を営む。 「へちまは、これまで誰も振り返るものがいなかったほど目立たず、無視された存在であった。そのへちまが社会主義、社会思想、あるいは民衆美術運動の舞台として、歴史に足跡をとどめるほどの動きを見せるのは、谷中に移ってからである」 望月桂さんは、ここで食堂経営のかたわら、平民美術論を構築する。「へちま」は、当時の辻潤らアナーキストたちの溜まり場となり、ここにくればめしが食えるというので、誰かしら居候をきめこんでゴロゴロしていたらしい。おそらく意気軒昂な情熱的な連中ばかりで賑やかだったであろう。しかし、貧しい労働者や学生たち、ツケで飲み食いされ、そのツケも踏み倒され。それじゃあ店がもたない。「人の良い望月一家では営利活動はとても無理なのであった」1917年には閉店して引っ越す。だが、望月さんには、ここで始めた民衆美術運動が残った。 関東大震災があって、そのドサクサにアナーキスト大杉栄と伊藤野枝夫妻、その子までが、甘粕正彦憲兵大尉に虐殺されるのは、1923年。まだ100年たっていない。東京大阪に、食べるに困る労働者の暴発回避の治安目的もあって、市営の「簡易食堂」や「公益食堂」が生まれたころだ。 参考=当サイトの「食堂の歴史あれこれ」 この場所は、地下鉄千代田線根津駅から言問通り谷中善光寺坂を鶯谷の方へ向かってのぼり、左に玉林寺がある、そのまん前だ。写真は、玉林寺の門のところから撮っている。1997年ごろのことで、いまはどうなっているかわからない。 大正自由人つわものどもの夢のあと、と言うには他人事すぎる。大衆食堂で力強くめしくいながら、理想を追いかける若者は、いまでも、いる、のかな? ザ大衆食│大衆食的 |