大衆食堂の歴史に関するメモ

須田町食堂を大衆食堂の「元祖」とするのは間違っている。

食堂の歴史あれこれ の関連。

ご参考
ブログ版08年02月15日「「宮沢賢治の詩の世界」と「大衆食堂の研究」の出会い」
ブログ版06年10月26日「大衆食堂の呼称と歴史」

■エラソウに、方法に関して

歴史には方法があって、惰性的にやると、これまでの系図づくりのようなツマラン歴史になるんだな。だけど、大衆食堂の歴史は、それじゃあツマラン、そんなワクにおさまるようなものじゃないと思うね。そもそも大衆ってのが、そうだ。これまでの学校でベンキョウさせられるような存在とちがう。

「食堂の歴史あれこれ」は、一つの年表的な整理であって、歴史そのものではない。そもそも「大衆食堂」というのは風俗的な呼称であるから、そいつがいつごろから使われだし普及したか。それがどのような形態の飲食店を含めることができるのか、その歴史的なうつりかわりを考えるための資料なのだ。

「大衆食堂」以前には、年表にもあるように、「煮売屋」や「一膳飯屋」、一般的に江戸期から「縄のれん」といわれるが、酒も提供する一膳飯屋、それから、そば屋である一膳飯屋などのほかに、いまでも少し残っているが戦前はもっとあった甘味喫茶や甘味食堂、これは江戸期の茶屋の系統か、さらに営業のスタイルも店をかまえるほかに、担ぎ売りや振り売りや屋台など、じつにさまざまだ。

歴史というと、すぐ「元祖」や「ルーツ」を探したり決めたがる悪い癖があるが、大衆食の分野については、その方法は、ほとんど意味をなさない。なぜなら、上記の商売は、特別な技術やノウハウの創造や継承があって始まり成立したわけではない。日常の生活の料理を用いて、ま、たいがい自分たちが日常食べていたものを、自分たちの生活のために、その場の成り行きでやれる方法で提供を始め、そして生成消滅をくりかえしながら、時代の変化に応じて変わって、あるいは成長してきたからだ。特定の「元祖」や「ルーツ」から「大衆食堂」が始まったわけではない。そこんとこ、間違えないように。高級な専門店の歴史とは違うのだ。

大衆というのは不特定多数であり、そのなかに、どのような飲食提供を商売にする流れが存在したか、そしてそれらがどう「大衆食堂」の風俗へとつながっていったかなのだ。ま、つまり「ダイナミズム」ってこと。このことをぬきに、大衆の、そして大衆食堂の歴史を語ることはできない。

参考『大衆食堂の研究』カフェー、そして大衆食堂はどう生まれたか……クリック地獄

■留意点

おれの体験にしたがった整理。近代日本食のスタンダードが眼目。

発生論的
系譜論的
全体論的

「大衆の食風俗」ではなく、日常的な食事の場としての大衆食堂の検討が目的だから、非日常的な「おでかけ」や「ごちそう」という感じの飲食店は必要ない。たとえば、デパートの食堂や「じゅらく」、むかしの新宿の三平や渋谷の渋谷食堂などのように、当初から現在のファミレスに近い営業形態の飲食店や各種料理店は、視野には入れておくていどでよい。おなじように、特殊な立地、学生街や山谷地域なども、視野に入れておくていどでよい。これらは一般的にスタンダードとは言いがたい。つまり、おれの場合、大衆食堂は一般的な日常性のものだ。

社員食堂、弁当屋は、要注意。戦後の大衆食堂は弁当屋をかね、また弁当屋へ転業したところもある。けっこう大事だと思うが資料があまりない。