大衆食堂のメニュー

大衆食堂ならではの
個性それぞれのメニュー



横浜市中央市場<秋葉屋市場食堂>

東京都京王線笹塚駅近くの<常盤食堂>

千葉県野田市の<やよい食堂>

川崎市新丸子の<さんちゃん食堂>


埼玉県元与野市にあった<大衆食堂 泉や>



泉や

<ゴミ知識>メニューはフランス語のmenuのカタカナ語ですね。「お品書き」「献立」「献立表」のことですね
竹屋食堂
近代日本食のスタンダード

(2001年12月25日改訂、2002年7月12日更新)

大衆食堂というと「昔はよかったね」のレトロ趣味の話になりがちだ。それは、そこに歴史が蓄積されているからだろう。

たとえば、いま、1950年代のカレーライスがどんなものだったか、家庭で再現するのは、とてもむずかしい。おれもやってみるのだが、どうしても記憶にあるむかしのうまさにならないで、いまのうまさになってしまうのだ。ところが、これは『ぶっかけめしの悦楽』にも書いたのだが、1997年10月末で閉店した東京江戸川区の平井にあった福住のジャガイモだらけのカレーライスを食べたとき、その記憶にあったカレーライスに再会したとおもった。

といっても、むかしのカレーライスは、かなりばらつきがあったから、個人的な記憶にはちがいない。しかし、その味は、あきらかに西洋料理やインド料理のカレーとは、まったく味覚を異にしていたし、その点については個人差はないであろう。

だから、とくに1960年代後半から「本場の味」と称して広がった、西洋料理やインド料理のカレーに出会ったとき、多くのひとがカルチャーショックをうけ、「本場の味」のご託宣に感動し納得したのである。

そして新しい味がはびこり、古い記憶がぬりかえられた。料理というのは、つくられなくなり人びとの記憶がなくなると歴史はおわってしまう。おわるだけなら、すべての生成消滅の一環にすぎないが、歴史が書きかえられてしまう。これは伝説であって、歴史ではない。カレーライスの本場がインドだとか、横須賀の海軍から広がったなどというのは、近年のマーケティングがつくりだした伝説にすぎない。

このことを証明するのは論理的には簡単で『ぶっかけめしの悦楽』でも試みた。しかし、失われた味覚を再現して歴史を検討するのがむずかしい。ところが、たとえば、昨年の『週刊朝日』(2000年1月14日号「21世紀に残したいB級グルメ」カレー編)でもコメントしたように、東中野の東中野食堂のカレーライスなどは、はっきり昔の、つまり元の味だ。それらを食べてみれば、それをイギリスから伝来した西洋料理やインド料理のカレーと同じ体系の歴史にすることのバカバカしさを実感できるだろう。

もちろん、これは「なにをどう食べるか」という料理の歴史つまり生活の技術史としてのことで、「カレーライス風俗」のことではない。ま、とにかく、そういうわけで、なにをどう食べてきたかの歴史は、本の中ではなかなかわからない。それはたとえば、いま書店にならぶ料理書を後世のひとたちがみて、ホウー、21世紀はじめの人たちはこういう料理を食べていたのかと判断したら、とんでもないまちがいになる、ということを考えてみればわかる。

そういうことで、大衆食堂は近代の料理や食事の同時代博物館なのである。大衆食堂のメニューは、食堂の歴史の縮図であり、日本人のふだんの食事の凝縮としてみることができる。つまり、大衆食堂には近代日本食のスタンダードが現存しているのだ。

いろいろ流行はあっても、大衆食堂にあるような食事や料理を洗練させながら、日本の食文化は成長していくことになるだろう。これまでも、そうだったのだし、とりわけ家庭料理が衰退してしまったいま、そういうふうに、大衆食堂を考えることもできるのであるよ。

東中野食堂

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