六日町 大阪屋 高千代酒造
満足泥酔紀行 第2回
<大阪屋>にマンゾクマンゾク


大阪屋

(03年5月22日記、写真は5月18日撮影)

上越新幹線大宮発10時18分の越後湯沢行。越後湯沢で普通線に乗り換え六日町駅に降り立ったのは12時21分。高千代酒造へ行くためのバスは12時50分ごろだから30分ある。駅の六日町観光協会へ寄って事務局長で同級生のクボシュンこと久保田俊介さんに挨拶、「ちっと腹ごしらえして行ったほうがいいね」「すきっ腹で飲むとロクなことにならんすけの」という会話をかわす。

クボシュンさんもおれも大酒飲みのほうだろう。昨年は2人で高千代酒造の五月まつりのあと、6月は八海醸造の酒宴にも参加した。それが、夕方からだったものですきっ腹で行き、八海山の大吟醸を意地汚く飲み放題に飲み、いや〜写真を見せられない状態の泥酔をした。そのニガい経験があってのことである。「大酒飲みに反省はない」…という言葉があるかどうか知らないが、反省は、あるのだ。


さてそれで、大阪屋は六日町駅前商店街にあって、駅から1、2分。ここが、いつから食堂になったか記憶がはっきりしない。敷地は昔からこんなものだったが、建物は建て替わっていて、家が全体もうひと回り小さめだったと思う。その左端の位置で「大阪屋のかあちゃん」が町で初めての大判焼を始めたのは、おれが高校生のときだった。そうなのだ、ワレワレは「大阪屋のかあちゃん」と呼んでいた。

かあちゃんが、セガレが調理師学校だか、あるいは飲食店で料理の勉強をしているとかで、帰って食堂をやるのだと話しているのを聞いた記憶がある。セガレというのは、おれより数年年長で、いまの大阪屋の店主。

しかしおれは「大阪屋のかあちゃん」が焼く大判焼以外食べた記憶がないのだ。でも、そのころ、狭い玄関のような土間で食堂をやっていたような記憶もある。あるいは、おれが高校を卒業して上京するのと入れ替わりぐらいに食堂が始まったのかも知れない。記憶は、かなり、あいまいだ。とにかく、ついでに書くと、おれやクボシュンさんと同級の女の子がいたね。

かつてのおれのウチは、ここから数分のところだった。高校の通学途中に必ずこの前を通る。おれが大阪屋の大判焼を食べるようになったイキサツは、昨年12月16日の新潟日報の連載に書いた。

 六日町駅前通りの食堂、大阪屋の「かあちゃん」が大判焼を始めたのは、一九六〇年前後の冬だったと記憶している。入口のすぐ横を、外から見えるようなガラス窓にして焼きはじめた。
 町には、大判焼の前に今川焼があった。わたしが小さいころのことで、いっときは二軒できたほど人気だった。だが、わが家を基準に考えると、ひと冬に何度も買えるという状態ではなく、ゼイタクなものだった。いつしか姿を消した。
 大判焼の時代、わたしは高校生になっていた。すでに高校生は、昼の弁当を持たずに、あるいは持っても別に、パンを買って食べるのが日常だった。買い食いはゼイタクという経済も考えも、昔話になりつつあった。
 それでも立ち食いはいけないことだった。大判焼は買って家に持ち帰って食べるのが普通だった。
 山岳部の部活で下校は毎日五時半すぎになる。ある日、列車通学の同級生、柔道部のNと一緒になった。すると彼は時間があるから一緒に大判焼を食べようといった。わたしは一瞬躊躇した。どう食べるのか、イメージがわかない。立ち食いには抵抗があった。彼はそれを金のことと勘ちがいしたのだろう、「おごる」といった。
 とにかく入って、大阪屋のかあちゃんが焼いてる横に立って、おしゃべりしながら食べた。部活の後のすきっ腹に、そのうまかったこと。それからもう病みつき。
 大判焼は当時は冬だけのことだったが、いまでは一年中ある。時々近くの大判焼屋の前を通って思い出すのは、暗い雪に埋まった街に大阪屋の窓からもれる灯りとかあちゃんの姿。それにしても、あのころは、大判焼を食べてから目と鼻の先の家に帰ってすぐ、飯を三、四杯ぐらいペロリ食べていたのだが。
ま、そういうことで、初めて大阪屋のかあちゃんが焼く大判焼を食べたのである。Nとは高校2年のときに同じクラスだった記憶があるから、だとすると1960年の末のことかも知れない。この文章では、なかに入って焼いているそばで食べたようだが、吹雪く日などはなかに入っても、ふつうは外から窓をあけて買い、そこで立ったまま食べた。どのみち、その間、大阪屋のかあちゃんとオシャベリをした。さあて、なにを話していたのかねえ。

当時はこの写真のようなアーケードはなく、また旧三国街道沿いの商店街のようにガンギもない。なにしろ駅前通りは、やっと商店街らしくなったばかりで、おれが中学生の頃はまだ、道路沿いに田んぼが何枚かあった。そういう意味では、江戸からの街道沿いに発展した町で、駅が中心になったのはほんの4,50年前なのだ。でも、もうクルマが中心で駅前は、かつての賑わいはない。

あのころは融雪や除雪の対策はなかったから、ひとが踏み固めた通路以外は降った雪と屋根から降ろした雪が堆積し、小さな家の大阪屋は雪に埋まるようにたっていて、その窓から灯りが雪に反射し、なかにかあちゃんの姿が見えると、身も心も温かい気分になった。

そういう記憶だけで、ほかのものを食べた記憶はない。そして町を去ってから、ときどきウワサは聞いた。ラーメン、なかなかよいよ。生姜焼き定食がボリュームがあってね、単身赴任のとき、よく食べました。などなど。

1995年の『大衆食堂の研究』には、こう書いた。

大阪屋食堂  おれの故郷の食堂だからとくに記す。JR上越線、六日町の駅前商店街にある。田舎町だからいかがわし度はない。高校生の1960年頃、ニール・セダカの「恋の片道切符」の英語歌詞をカタカナで書いた生徒手帳をポケットに、はじめて自分のこづかいで立ち寄った食堂だ。下校の途中、電車通学の南雲というやつに誘われてね。大阪屋はそのころとくらべるとずっと立派になった。南雲はどうしているかな?

なんじゃ、ここでは「N」のことを「南雲」と書いているじゃないか。ま、ええか。

イヨイヨ大阪屋に入る。奥に長いカウンターと小上がりのテーブル席があり、昔の面影はない、ずいぶん広くなっていた。今回は、あとに高千代での飲み食いが控えているから、カウンター席に座り、軽い腹ごしらえのつもりでラーメンを頼んだ。

おっ、奥から店主が出てきた、おおっ、見覚えのある顔。どうもやっぱり、この顔のひとがつくるカツ丼を食べたことがあるような気がするなあ、でも、いつのことかなあと考えるがわからん。思い違いか、トシのせいか、どうでもいいや。厨房の作業はカウンターの内側、座った客席の目線からやや下ぐらいの位置で行われる。ラーメンは奥さんらしいひとが手際よくつくる。

出てきたラーメン。うーむ、さすが、むかしの濃い色のラーメンだ。ちかごろは、こういう正しい濃い色のラーメンは東京周辺じゃ見かけないね、ってなものだ。しかし食べてみると、それほど味は濃いわけではなく、香りもやわらかで、ある意味では期待していた田舎風のゴリッとした感じはない。ラーメンにうるさい連中なら、スープが澄んでいる、すっきりした味、どんぶり抱えてスープを飲み干してしまった、なんて書くのだろうか、なかなかウマイ!なのだ。

量は、もちろんタップリ、500円。マンゾクマンゾクで、駅の観光協会にもどる。もどってクボシュンさんに「大阪屋のラーメン、なかなかじゃない」というと「あそこは老舗だもの」といった。なるほど、大阪屋は六日町では、大衆食堂の老舗なのだ。

じつは、おれがラーメンの味を覚えたのは、大阪屋より古い六日町の大衆食堂「みのや食堂」のラーメンだ。そのことは、いずれまた書こう。おれの記憶にある六日町の古い大衆食堂というと、みのや、洋食系のイマナリ、蕎麦屋の万盛庵、そして一番新しく大阪屋である。イマナリについてはわからないが、ほかは老舗としてやっているし、おれのような町を離れた人間にとって、そこはまさに故郷なのだ。

けど、なんで、「大阪屋」なのだろうね。たしか、これは屋号で、食堂を始める前から「大阪屋」だったような気がする。なぜなのかな? とにかく、そうやって大阪屋のかあちゃんも多くの大衆食堂のかあちゃんとうちゃんのように、生活をし子供たちを育てたのである。

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