東京・大森「海苔のふるさと」
下金海苔店訪問

(2002年4月某日訪問撮影、
2002年5月22日記)

海苔の大森

下金海苔店
東京都大田区大森東3-3-2
03-3764-4654


下金海苔店は江戸期からの暖簾の問屋さん。山本海苔の高級贈答用の海苔を扱い
小売もしている。
上等な品質のものを確保し
提供し続けてきた。
社長の四代目、平林政雄さん71歳、
後継者の延昭さん43歳。
お二人に話を聞いた。

海苔といえば、長いあいだ大衆食堂の単品メニューの定番だったし、とくに日本人が正しく朝食を食べていたころは、これは付き物だった。

その海苔巻きに使うような大きな四角い海苔だが、おれがガキのころは「浅草海苔」とよんでいた。それは昔は食べる前に火であぶったのだが、いまは「焼き海苔」で流通しているし、わざわざ「浅草海苔」とよばれることは少ない。

それにしても「浅草海苔」だったのだから、海苔のふるさとは浅草なのではないか。しかし大田区大森は「海苔のふるさと」を名のっている。そこに、いかなる事情があるのか。この「海苔のふるさと 大森」の旗をかかげる、下金(シモキン)海苔店を訪ねてみた。

なんと、京浜急行大森町駅周辺には、大小の海苔問屋が80軒ぐらいはあるそうだ。大森海岸での海苔の生産は江戸期から盛んで、だからまた問屋もたくさんできた。

昭和37年、おれが上京した年に海岸は高速道路工事のため埋め立てられ江戸期から続いた海苔の生産は幕を閉じた。かわって登場の京浜工業地帯は、すでに空洞化で寿命つき、けっきょく無に帰したような海岸埋め立てだったが。しかし、問屋は生き残り、海苔の一大集散地を築き上げた。

浅草で海苔がつくられていたことはないそうである。昔は大繁華街だった浅草へ運んで売ったから、浅草海苔として知られるようになったらしい。

それより意外だったのは、海苔が広く家庭に普及したのは、戦時の配給からということだ。戦後、海苔の生産が三十億枚から現在の百億枚になるあいだに、海苔は日本の朝食の風景になった。これは新しいことなのだ。そういえば、おれが小学生のころまでは、海苔は貴重品で、海苔のにぎりめしなどは、めったに食べられるものではなかった。


下金海苔店の平林さん親子
左、四代目平林政雄さんから、
右、五代目延昭さんに引き継がれる、
日本の正しい海苔が大森にはありました。
このマーク?家紋?も江戸期からのもの。

平林さん親子は、いまでは主に五代目の延昭さんが冬の寒い時期に有明の海へ買い付けにでかけ、海苔の産地と消費者を結ぶ大事な仕事をしている。延昭さんが作っている「下金海苔通信」の2002年1号には、このようにあります。
昨年は色落ち等、30年ぶりの大凶作という事でマスコミから一大ニュースとして取り上げられてきた有明海ですが、今年はこの1年の生産者、その他海に関わりのある方々の並々ならぬ努力の甲斐あってか、近年になくすばらしい海環境の元で良質の海苔が採れています。

今年も弊店は生産者との直販売買ルートにて、高品質のおいしい海苔を仕入れておりますので、昨年同様、市価より安くご提供させていただきます。
どうか一度、下金の海苔をご試食ください。そりゃもう、とてもよい海苔です。それに、こじんまりとした問屋さんですが、それだけに心の通うおつきあいができ、ファンも多いようです。

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