参考:当サイト ぶっかけめしの悦楽 参考:ブログ版 「料理学研究所」やりましたね |
料理分類学研究所 フード・タクソノミー 資料を探していたら偶然これが出てきた。読んだらオモシロイ。また埋もれさせてしまうのはモッタイないと思い転載することにした。 1999年末、いまでは休刊か廃刊になった食の専門誌から「料理分類学研究所」というアソビをやるので顔を出して欲しいと誘いをいただき参加した。99年11月に発売された拙著『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド)を見た編集者が興味を持って声をかけてくれたのだった。 これは料理の分類を従来のワク組みとは違う視点で考えてみることで、食文化や料理文化の新たな発見や発想につなげていこうという意欲的な取り組みで、思いつくまま好き勝手を言えて楽しかった。 掲載になったのは、2000年1月号と2月号。議論の中では、いろいろな分類の「的」「型」が出てきたが、その中から1月号では料理や味覚を「抑圧的と開放的」を中心に、2月号では「腹的と歯的」を中心にまとめてある。 この雑誌には、さらに3回ほど登場する機会があったが、休刊か廃刊になった事情は、スポンサーのジケンが原因であり、読者減や金銭的の問題ではなかっただけに残念だ。 (06年5月29日掲載) ■1月号本文 こちら、都内某所に設立された〈料理分類学研究所〉。その使命は、料理を従来とはまったく違う視点から分類し直し、食文化研究の新たな地平を切り拓くこと。名づけて料理分類学(フード・タクソノミー)。当研究所では、二人の研究員がその任に当たるが、月に一度、ゲストを招いて議論の場を設けることになった。1回目は大衆食の会代表・遠藤哲夫氏。 A研究員▼研究所へようこそ。遠藤さんの本『大衆食堂の研究』『ぶっかけめしの悦楽』、おもしろいですね。大衆食堂やぶっかけめしという庶民の底辺の食文化から、日本の食をとらえ直す。たとえば、西洋伝来の洋食に分類されていたカレーライスが、ここでは日本古来のぶっかけめしの流れに分類される。では、ぶっかけめしとは何か。 遠藤▼めしにコクと香りのある汁をかけて食べる。カツ丼のように汁と具が一緒のもの、天丼みたいに具と汁を別々にかけるもの。汁はだし汁や味噌汁やスープやタレ、ソースや醤油でもいい、とにかくコク、だしが効いてなきゃいけない。米食のある国ではみんなやっていて、これでめしを「かっこむ」わけ。 A研究員▼ごはん、味噌汁、おかずの一体化。 遠藤▼というより、ごはん・汁・おかずを別々に盛って食べる、いわゆる定食スタイルは、庶民の間では比較的新しいんですよ。食器の普及の関係から見てもね、椀一つのぶっかけめしが先にあって、定食や丼物が分化したと見ることができる。ぶっかけめしと定食は、要素は同じでも料理としては別モノだと思うよ。前者は一つの器の中で複数の食品が混ざって生まれる複合融合的な美味を追求するのに対し、後者はそれぞれ単品単一的な美味を追求する。コシヒカリだ何だという近年の白米至上主義は後者の典型で、これが「和食」のようにいわれているけど、我々はカレーライスや丼物を捨てきれない。複合融合型が身体や生活に染みついているんだ。 S研究員▼混ぜるというのがポイントですね。丼なんかは、掘るというか、崩していく感じになる。 遠藤▼そうそう、破壊の痛快感。つまり、食べる人が勝手に混ぜちゃって破壊し完成させる快感であり、白めしは上品で正しくてぶっかけめしは下品で邪道とする偏見から解放される快感でもあるんだ。定食スタイルは、古代貴族の食事に源を発するといわれたり、要するに昔の貴族がやっていたからよいという権威主義ですね。もとはといえば1日に2回もぶっかけめしをやっていた武士までが権力を握ると、それを「正しい食事」にして、ぶっかけめしを卑下した。それが近代の日本料理界や学校教育に引き継がれた。その、変にタブー視されたことをやる醍醐味、これを「痛快味」と表現した人が、皮肉なことに、日本料理界の大家・辻嘉一氏だった。 A研究員▼そうか、ぶっかけめしは、料理のイニシアチブを食べるほうが握っているわけだ。民主的ですね。 S研究員▼民主的という点では、手巻きずしも同じだね。で、ぶっかけめしが壊すことを楽しむ破壊型とすれば、手巻きずしはつくることを楽しむ構築型。 遠藤▼定食もにぎりずしも出されたものを黙って食べうと、抑圧的。単品ごと素材ごとのウンチクがうるさい。ぶっかけめしや手巻きずしは、自由に理屈抜きに楽しめる料理。 A研究員▼解放的だと。次回もぶっかけめしを深く掘り下げてみましょっ。 ●1月号かこみ 抑圧的……定食型。ごはん、味噌汁、おかずを別盛りにすることによって、必然的にそれぞれ単品としての美味の追求へと向かう。食事作法としても、ごはん、味噌汁、おかずを順序よく食べるいわゆる「三角食べ」が強要される。 解放的……ぶっかけめし。右:「目玉焼き丼」。ごはんに目玉焼きをのせてウスターソースをかけるだけ。ごはんにからまる卵とソースのコクが絶妙。左:「冷や汁」。宮崎名物。煮干し、ごま、味噌などをすりつぶしてだしでのばし、冷たく冷やして熱い麦めしにぶっかける。トッピングに豆腐、しそ、みょうがなど。 ●2月号かこみ 腹的……讃岐名物「ぶっかけ」うどん。讃岐の人はうどんをほとんど噛まずに飲み込んでしまう。のど、および腹の快楽。 歯的……天ぷら、カツ、フライなどは衣のサクっとした軽さがおいしさの条件になっている。歯の快楽。 ■2月号本文 A研究員▼前回に続きゲストは大衆食の会代表・遠藤哲夫さんです。前回のおさらいをすると、ぶっかけめしの快感とは、食べる人が勝手に混ぜ・破壊する「痛快味」、そのおいしさは、いろんな素材が混ざってできる複合融合的な美味.ということでした。とにかくグチャグチャに混ぜたほうがウマいと。これがある時期から不作法というレッテルを張られて、ぶっかけめし抑圧の歴史が始まるわけです。 遠藤▼かけめしはイケマセンてなことをおっしゃる先生方は、「正しい」日本料理の伝統を近代以前の上流階級の米食文化に求めるわけだけど、それはきわめて狭い社会の形式主義にすぎないんだ。大多数の庶民はずっとかけめしを食ってきたんだよ。 S研究員▼つい先日の新聞にも「かけめしをかっこむのは不作法」とある料理人が書いていましたよ。 遠藤▼もっとおおらかに現実を受け入れてほしいね。かけめしは日本だけでなく、ごく自然な食べ方の一つだよ。だいたい以前は日本の米も硬かったし、庶民の日常では米が足りなくて雑穀や野菜を混ぜるのが当たり前。これだと硬いうえにボソボソでむせやすいから汁をかける。かけめしには汁気を補って食べやすくするという意味もあったのさ。で、これをガガーとかっこむ。口の中でもよく噛まないで、どんどん腹の中に詰め込むんだ。そのほうが腹もちがよく苛酷な労働にも絶えられる。結局腹でおいしさを味わっていたんじゃないかな。ほら「腹へった」て言うでしょ。あれは文字どおり腹が、体が求めているってことでしょ。 A研究員▼なるほど! 腹的ですね。で、その反対は口的。 遠藤▼おいしさというのは、かなり観念の産物なんですよ。おいしいと思っているからおいしい、という。だからある習性がおいしさをつくったりするし、たとえばグルメとグルマンでは美食の意味が違う。グルメは単に舌先でちょろっと味わう舌的文化、グルマンは腹でも味わう大食文化というか腹的文化。オレは「腹派」かな。 S研究員▼だとするとほら、A君がこだわっていた讃岐うどんの「のどこしのおいしさ」、あれも腹もち文化なんじゃないの。うどんを噛まずにズルズル飲み込むっていう讃岐人の食べ方。 A研究員▼そうなのか! なんでのどごしがうまいのかマジで悩んでたんですよ。あれはもともと腹が気持ちよかったんですね。思いもよらなかったなー。 遠藤▼コシのあるうどんを飲み込むっていうの、労働者的なガッツがあっていいよね。ぶっかけめしと同じ。舌だけでなく、のどや腹で感じる味わいもあるんだよ。 S研究員▼こういうことはいえませんか? つまり人が感じるおいしさのありかが内臓からのど、舌へと徐々に上がってきたと。 遠藤▼そういえば最近、「サクサク」とか「カリッとした」とか、口の中の食感のことがやたら強調されているのは何なのか気になっていたんだよね。スナック菓子が典型だけど、料理でもそう。ほら天ぷらとかカツの衣がサクっとしているのがいいとかうるさい人が多いね。あれはまさしく口の先端、歯で味わう「おいしさ」。それもオレに言わせれば観念の所産なんだけどさ。 A研究員▼「軽さ」ですよね。軽いほうがおいしいというほうに、おいしさがどんどん観念化してきた。昔は腹にドーンとくる「重さ」がおいしさだったんだけど。 遠藤▼でもさ、いくら観念化しても、腹の快感、満足感からは逃れられないんだよ。やっぱり自然の一部としての体あっての人間なんだから。 |
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