大衆食堂の真相(1)(2)


(03年10月1日版)

2001年のことになるが、いまでは悪名高き存在になった雪印乳業が発行する『SNOW』という雑誌の「食楽学会」のコーナーに、おれが6月号と7月号連載で「大衆食堂の真相」を、大衆食の会の参加者で一橋大学大学院生(当時)の林原圭吾さんが8月号に「韓国大衆食堂のナゾ」を書いた。この雑誌は食の専門家のあいだで高い評価を得ていたが、ツマラナイ騒擾のなかで消えた。おれの原稿全文は、ここに掲載。


(1)近代日本食のスタンダード
「SNOW」誌 2001年6月号 食楽学会 掲載

 1970年代ぐらいまでは、現在のコンビニのように、どこにでもあった大衆食堂は、ときたま感傷的な昭和30年代古物ショーのネタになる以外、「貧乏種」「絶滅種」、ことによると「愚民種」とみなされ、あまりかえりみられることがない。だが、ここには近代の食環境の激変を何回もくぐりぬけた食事と料理の蓄積、日本食や日本料理のスタンダードがある。そういうことで、ではまいろう。まずは常盤食堂である。大衆食堂の、一つの典型を、ごらんいただきたい。

 常盤食堂は、現在の場所で1918(大正7)年、流行の大衆的なカフェーから始まり大衆食堂へ転換、戦時下は外食券食堂。戦災で焼けた店を戦後すぐ再建、外食券食堂と東京都指定食堂の時代、大衆食堂絶好調の高度経済成長期を生きて、こんにちにいたった。
 現在は二代目。創業夫妻の四男、内山繁雄・ハツ子さん夫妻二人だけでやっている。繁雄さんは1939年生まれ、20歳のとき次男の急逝で店を継ぐことになった。父上は戦後のメチル飲酒で失明、母上が料理をしていたのだが、一緒に仕事をしながら見よう見まねで覚えた。1965年、店を改装し、ハツ子さんと結婚。店舗もメニューも、そのころのままである。後継者はいない、この代かぎりだ。
 定食セットメニューが750円平均。

たたずまい

 とにかく外から中が見えない。冷房がない時代の夏は、戸を開け払い、丈の長い暖簾をかけ、食事中の客と通行人の目線が合わないようにするのが、アタリマエだった。
 1970年代の見通しのよいファミレスやファストフード店以降、こういうたたずまいは、「いかがわしい」ものとなった。近頃は若い男は入るのに尻込みをし、若い女が一人で悠々とビールを飲み食事をしたりする。いったい、どちらが食の楽しみを知っているのだろうか。

メニュー

 店内に入ると正面に、蛍光灯の行灯メニューがある。むかしは「オシャレ」、当時の言葉なら「ハイカラ」ものだ。
 御献立とあって、いきなりガムテープ。その下の文字は、ビフテキだ。つぎ、上とんかつ、ボークソティー。つぎのガムテーブの下はとんかつ。オムライス。オムレツ。チキンカツ。ハムエッグ。目玉焼。つぎ「丼物」。カツ丼。親子丼。玉子丼。チキンライス。焼めし。ライス汁付。大盛ライス汁付。以下「お飲物」。
 カフェーから始めた先代の誇りを感じる。欧米コンプレックスという不健康は、ここにはない。これが1950年代の大衆食堂の定番でもあるのだ。明治の「開国」以後、食事と料理は激動するが、大衆の選択がこれである、と見たらどうだろうか。

ハムエッグ、ポークソティー、オムレツ、マカロニサラダ

 1960年代中頃まで、ハムエッグやポークソティーやオムレツは、ふところぐあいがいいときに食べるものだった。簡単な料理だが、これを、普通にうまくつくれる人がどれだけいるだろうか。料理を洋風・和風の風俗でとらえ、栄養、愛情、こだわり、粗食というような言葉でオシャベリし、生活の技術として語り継ぐことが、あまりにもおろそかだったのではないだろうか。
 貧乏だったからではない。実に、人間は、こういう簡単な料理で食事を楽しめる動物なのだ。
 工業社会、高度経済成長の味覚ともいえるマヨネーズあえのマカロニサラダ。サラダは、ポテトサラダにしろ生野菜サラダにしろマカロニサラダにしろ、「マヨネーズ料理」だったと言えそうだ。

サバ塩焼き、ほうれん草おひたし

 行灯メニューの下の短冊メニューには、ズラリ日本の古いアタリマエがならぶ。焼き魚、煮魚、魚フライ、メンチカツ、コロッケ、ほうれん草おひたし、納豆、冷奴……。ここには「逸品」などと呼べるものはない。特別に凝ったつくりのものもない。「安い材料」と「簡単な料理」で「うまく」という、生活の必然というか普遍がある。

焼きめし、チキンカツ

 どうしても「和・洋・中」などと分類して、それぞれに「本家・本場」があるとしなくては気がすまない人たちは、「焼めし」をどうみるのだろうか。
 いや、これはピラフの真似でしょうね、やっぱり。いや、チャーハンの真似でしょう、語源からするとですね……。などと学術を深
めるのだろうか。どうぞ、ご勝手に。
 ところで、ご主人、ハンバーグはなぜやらないんですか?
 「あれはちゃんとやるとなると、全然違う料理なんですよ、いままでの手順ではやれないんです」
 常盤食堂のメニューには、1970年頃から急激に普及するハンバーグ以後、がナイ。かといって、まったくないわけではなく、豚肉生姜焼きやエビフライの普及は反映している。この「なぜ」を考えつつ、微妙に「洋風」で頑なに「和風」の、だが、ただ近代の味覚であるチキンカツ定食を食べていると、生活の技術としての日本料理について、いろいろ考えさせられる。ハンバーグとは、何なのだ。「家庭料理」というのは、本当にあったのか。などについて。

 が、だがしかし、う一ん、定番のカレーライスがないじゃないですか、ご主人?
 「あれは、一時落ち込んだ頃がありますね」「東京オリンピックすぎに?」「そうだったでしょうか、東京オリンピックの頃からいろいろ変わりましたから、その頃なんとなくやめちゃいました」
 「カレーライスは日本食ではない」と言う人に、ここのカレーライスを食べさせたかった。次号の大衆食堂で食べてもらうとしよう。


(2)ここに食事と料理の同時代史がある
「SNOW」誌 2001年7月号 食楽学会 掲載

 たとえぱ、なぜ「いただきます」が必要なのか、カレーライスという料理は何をどう料理したものなのか、理論と論理で説明つかなくては、日本の食事と料理について解明できない。と、思うのである。
 「食文化ブーム」というのがあって、一時は「食事学」や「料理学」という言葉もささやかれたが、このような理解や議論が深まったのか、どんな蓄積があるのか、振り返ってみると心もとない。気楽なオシャベリのうちに、自分が生きている時代のことも忘れられていく。

 そういうことで、食事と料理の同時代史をみるには大衆食堂である。では、まいるぞ。東中野食堂は、1950(昭和25)年、この場所で創業した。前回の常盤食堂と同じく、戦後の外食券食堂と東京都指定食堂の時代を経た。現在のご主人は3代目の吉本安雄さん(47歳)。奥さんの道子さん(47歳)と2代目の奥さんの和代さん(70歳)の3人だけでやっている。
 すべての定食セットメニューが700円以下。

シッカリめしを食べるところ

 以前この近くに職場があるSさんは、「シッカリめしを食べようと思ったら、やっぱりここね」と言った。その言葉に東中野食堂の特徴がある。それはまた大衆食堂の特徴でもあるのだが。
 定食セットだけでも、めしの量がどんぶりに茶碗2杯分ぎっちり、おかずの量もたっぷりで、小鉢もついている。こういう「シッカリめしを食べられる」店がなくては困る生活があったし、ある。
 単純な整理をすれぱ、江戸期の煮売り屋から一膳飯屋そして大衆食堂への過程は、「白めし定食」の成立の歴史でもあった。それが大都会でだが、スタンダードといえるようになるのは、新しい。ほぼ大正期後半である.。で、そのころ、白めし定食と一緒にパンとコーヒーとミルクがメニューにあったのだから、おもしろい。お仲間なのだ。
 東中野食堂の定食は、メンチかつ、ロースかつ、チキンかつ、とりから揚げ、いかフライ、肉の生姜焼き、焼魚(さけ)、肉豆腐、あじフライ、ポテトコロッケ、さぱみそ煮、さば塩焼、さんま塩焼、あじ干物、とん汁(ハムエッグ付)、野菜オイル焼。人気は、いかフライ、とりから揚げ、とん汁。
 かつてとん汁定食は大衆食堂の定番メニューだった。それは、どんぶり一杯のとん汁と、どんぶり一杯のめしと、おしんこがついているだけだった。最近「具だくさん汁」が話題のようだが、とん汁は昔から具だくさん汁であり、これで食事になった。そして新しい経営方式や新しい店舗スタイルに転換する大衆食堂でも、とん汁は意外にしぶとく残っている。

カレーライスの疑惑

 とん汁がいつどのように生まれたかを調べたことはない。けんちん汁に近い印象がある。ここからコンニャクやゴボウをのぞき、味噌ではなく、カレー粉やうどん粉のちには即席ルウを入れればカレー汁になり、カレーライスができあがる。大雑把な言い方だが、カレーライスはそういうものだった。それを、ここで食べられる。値段は580円。カレーライスは和代さんがつくるのだが、この味は、この年齢ぐらいのひとでなくてはつくれないと思う。彼女はそれを戦前に母親から覚えた。
 そして和代さんは刻んだ玉ねぎをキツネ色やアメ色に炒めてカレーライスをつくったりハンバーグをつくったりは苦手である。できない。ここに、ハンバーグ普及以前の料理の特徴がある。その時代に普及したカレーライスを日本食とみるかどうかは、食事と料理をどうとらえるかの、きわめて理論的論理的な問題が関係するだろう。しかし、そのことにふれられないまま、カレーライスは伝来で、インドに本場・本物があることになってしまった。

忘却のクジラ肉南蛮炒め

 料理はカタチを残さないから困る。取材中の話から、忘れられていた人気の料理が思い出された。クジラ肉南蛮炒めである。これは1970年代中ごろまでは、どこの食堂にもあった。ということになると、もしかすると、豚肉生姜焼きの普及は、これと入れ替わりか。でも「ポークジンジャー」ってのもあったしなあ。
 大衆食堂は地域と密接で、今でも若干その特徴を残している。日本列島を北から南まで、あるいは国境を越えて大衆食堂をピックアップしてみると、今までの通説(ま、通説といえるほどのものはないのだが)とは違う、食事と料理の姿が見えてくるような気がしてならない。
 今大衆食堂は衰退しているといわれているものの、それは大衆食堂にかぎらない零細経営の困難であり、大衆食堂のメニュー自体はさまざまに生かされている。これからも生かされていくだろう。


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