食の原点を考える縄文紀行
八ヶ岳西麓「尖石縄文考古館」で縄文人と会う
縄文人は意外に身近な存在なのだ



(06年9月15日掲載)

美術系同人「四月と十月」第6回古墳部活動「諏訪を訪ねる」が、去る6月3日4日にあって、おれは同人ではないが誘われて、前回に引き続き参加した。

その大雑把な様子は、すでにブログに書いた。06/06「肉食文化と米食文化と古墳部の旅」……クリック地獄

ここでは、とくに尖石縄文考古館について感想をまとめておきたい。とりあえず簡単にであり、また後日、書き足すツモリ。

ここを訪ねるのは二度目だったが、今回はゆっくり全部を見ることができた。周囲は広大な面積にわたり遺跡公園として発掘作業と整備が続いている、八ヶ岳高原の空気が満喫できるとてもよいところだ。

現代の食文化、料理は縄文期からこっち、おなじ時間と空間のなかにあるということを「実感」した旅だった。つまり現代の食文化と料理は、この時期に骨格をもち、コンニチまで続いていると「実感」したのだ。いま自分たちが台所に立ってする料理の、つかう食材や道具はちがっても、その方法や考え方は、このころ生まれたものが多いことを「実感」した。縄文人は意外に身近な存在であり、ワレワレの一部であると「実感」した。そのように「実感」だらけだった。

縄文土器は、美術品のように見えるが、そのほとんどは実用品で、煮る、蒸す、保存などの道具だ。この考古館には、この写真に写っているのは一割に満たないほど、膨大な量の土器石器などがあって、しかも縄文中期から弥生期まで揃っている。それらを見ながら、縄文中期からこちらの数千年にわたる食生活をイメージするのは、じつに楽しくまた刺激的だ。

調理道具となる石器は、ものを割いたり切ったりはモチロン、すりつぶす、後世のウスやすり鉢の働きをする道具があって、これは主に木の実などをすりつぶして食べやすくするためのものだったらしい。現代の、粉ものや練りものを得る道具の、原初的なカタチといえるだろう。

これらは「より食べやすく」の食文化が生んだ道具だ。縄文人は、どうしたらたべやすくできるか、当時としてはそれが「うまい」という感覚につながる重要なファクターだったように思われるが、ま、けっこう真剣だったにちがいない。その真剣さが、ミゴトに、優しさを感じさせるほど丸みをおびた石器に息づいているような気がした。この石を手に、木の実をすりつぶす縄文人の呼吸がきこえてきそうな感じがした。

この時代は狩猟・採取・漁撈が主であり、この時代に、そのへんにありふれたものを「より食べやすく」「よりうまく」の「食べ心」が道具と共に大きく成長し、それが現代の食文化の源であるにちがいないと「実感」した。

下の写真は、木の実をすりつぶして型にして焼いた料理の残骸、クッキー状炭化物だ。おなじようなものが、あちこちの縄文遺跡で発掘されている。ドングリなどの木の実は、アク抜きが必要であり、流水や水をはった土器のなかでアクぬきする方法を縄文人は、すでにやっていた。すごいなあ。

クッキーは、肉を混ぜて焼いたものも見つかっている。また尖石遺跡の北側には、有名な黒曜石の産地(現在の和田峠周辺など)があり、これは硬い石質で、鋭い刃物や鏃などの石器をつくるのに適しているのだが、それが北は青森の遺跡で発掘されたり、また尖石遺跡からは、瀬戸内地方や北陸地方の土器が発掘されている。物々交換経済は、想像以上に広範囲だった。当時としては、地の果てまで出かけていくかんじだったのではないかと想像した。現代人が発達した交通機関を利用して、地球をまたにかけて交流するのも当然であり、そのわりには「島国根性」の現代日本人は、縄文人よりいささか狭い了見で暮しているかも知れないと思ったりした。ともかく、そのような広域の交流は、食文化の発達に少なくない影響をもたらしたことだろう。なーんて考えたりしたのだった。

ワレワレはワレワレ自身の「食うこと」の歴史をあまりにも知らなすぎる。そのアタマで政治だの経済だの文化だのとエラソウにしているのだ。どっかおかしくなるのはトウゼンだ。すべては「食うこと」から始まっているのだ。すべてを「食うこと」のためにするよう考え直すべきだ。

今日は、ここまで。後日、書き足すツモリ。

尖石縄文考古館……クリック地獄
ご参考=当サイト、前回の古墳部活動「食の原点を考える貝塚紀行」…クリック地獄

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