アジのほねせんべい
みごとなアナログ技術の風景   千葉県外房 安房天津

(05年7月29日掲載)

前回「めざしの風景」の続き、だ。前回の最後の写真、赤いスカーフのオヤジと写っているのは、コレ。ほねせんべいになる、アジの骨を干しているところだ。畳一畳より大きめな干し台が、ズラリ50ぐらいは並んでいた。

ほねせんべいを食べたことがあるひとはご存知だろうが、骨のまわりには肉がついている。つまりアジを三枚におろしたときに出る中骨の部分、尾のほう半分ぐらいを、こうして干しているのだ。

これを見たときは、思わず「うわ〜」というような声をあげてしまった。すごい、キレイだ。写真の白く濃い短い棒のように見えるのは骨で、そこから細い骨が出ている、その細い骨に、薄皮一枚ぐらいの身がついている。この写真でも、その透明感は、わかるのではないだろうか。むこうがわが透けて見えるのだ。まだ加工して並べ干したばかりだから、そんなぐあいなのだが、こんなに薄く切るなんて、とにかくスゴイしキレイだ。

歓声をあげながら、デジカメとビデオで撮影していると、赤いスカーフのオヤジが近づいてきて、「どうだキレイだろう」という。そこで、おっ、首にタオルじゃねえのか、と思いながら「すごいですねえ、これはすごい」するとオヤジ「すごいだろう、これは、みんな手作業だよ、あのおばさんたちが、やるのさ」と自慢そうにいった。柄ものエプロンをしたオバサンたちが3人、娘のような笑い声で、作業場らしい建物から出てきたところだった。

それにしても、これだけ薄く身を剥ぐのだから、おどろきだ。しかもこれだけの量を。どんな手さばきなのか。おろした身のほうも、どうするのか気になる。これだけ薄く剥ぐ技術は、ほねせんべいのためにも、もう一方のおろした身のほうにとっても必要な技術なのだろうか。とにかくオヤジが自慢したくなる気持もわかる。大衆食は、「生活の知恵」という安直な言葉で片付けてはならない、高度なアナログ技術によって支えられてきた面があるのだな。

「それで、おろした身のほうは、どうするんですか」と聞くと、赤いスカーフのオヤジは、あまり関心なげに、「ああ、それは、おさまるところへおさまるの」というだけ。だいたい、大雑把なのである。「これ、何匹ぐらいですか」「さあなあ、数えたことないからな、すごい量だなあ」まるで他人事のようにいう。都会の人間は細かい数字を気にしすぎるようだ。「何日ぐらい干すんですか、3日ぐらいですか」「さあなあ、3日じゃ無理だけど、とくにいまごろは、まだ日が短いから、3日じゃ無理だよ、さあ何日かなあ」モンダイは日数じゃなく、仕上がりぐあいなのだな。それもお天道様しだいというわけか。

オヤジは、そのように大雑把な話をすると、まだまだイロイロ聞きたいおれを残して、赤いスカーフをなびかせ、軽トラックのほうへ行ってしまった。軽トラの荷台には、3人のオバサンたちが運転席のほうにむかって並んで立って待っていた。そのむこうに海が見えた。オヤジは乗り込むとただちにエンジンをかけ、元娘3人を荷台に乗せた軽トラは、昼下がりの海沿いの道を、勢いよく走り去った。そのうしろ姿は、じつに、颯爽と見えた。こういう風景を見られるのって、シアワセだなあ、の気分だった。

すぐそばの船着場には何艘もの漁船が陸揚げされている。新しいプレジャーボートもある。そのむこうに、このへんではイチバン高く大きく目につく漁協の建物が見えた。そこへ近づくと、さらにむこうに、大小の漁船が繋留されている波止場があったのだ。ということで、次回のオタノシミ。

アジのほねせんべい、むかしは、スーパーでも大きな袋づめで売っていて、バリバリガリガリゴリゴリ食べだすとあとをひいてやめられなかったのだが、最近は食べることも見ることもなくなった。これは、「菓子」や「おやつ」や「間食」ということになるのだろうが、むかしは、三度の食事で全てをおぎなう仕組みではなかった、といえるのかもなあ。


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