ザ大衆食トップブログ版日記


揚羽屋オヤジ追悼

その日2005年8月6日、おれは揚羽屋のオヤジと飲むのを楽しみに、出かけた。
しかし、揚羽屋に着いたが、オヤジの姿はなかった。
6月26日に、永眠されていたのだ。
あとは、涙なみだで酒を飲み食べ、帰ってきた。

とりあえずブログに、ややうろたえたまま、そのことを書きなぐったが、
ここに、そのことを書く気がしなかった。

1年すぎた去年の6月5日、揚羽屋を訪ねた。
悲しみをあらたにしただけだったが、
奥さんと娘さんが元気に店をやっている様子を見て、うれしかった。

それでも、書く気がおきない。
2007年の5月になった、今年も揚羽屋へ行く前に、
どうしても書こうとおもってはじめる。気が重いが。



(07年5月9日掲載)

2005年の8月6日は晴れていた。そのこともあってか、ひさしぶりに長野新幹線はつかわず、在来線各駅停車を利用して行くことにした。

在来線といっても、いまは信越本線なるものがない。長野まで一本でつながる鉄道は新幹線のみなのだ。信越本線はズタズタされた。しかも名所の碓氷峠をトンネルと急登でこす横川−軽井沢は廃止され、バスを乗り継がなくてはならない。この国がどういう方向へ向かっているかを象徴するような変わりようだ。

ともあれ、ここ北浦和からの各駅停車の旅は、京浜東北線で大宮駅、高崎線に乗り換え高崎、そして名ばかり残した信越本線で横川。そこで軽井沢ゆきのバスに乗り軽井沢。軽井沢から、かつての信越本線いまは「しなの鉄道」とよぶ路線で小諸駅に着く。

なぜか、いつもはゆきあたりばったりで、メモなどしたことはないのだが、このときの電車の乗降時間などのメモが残っている。北浦和11時52分(1280円)高崎13時33分、高崎14時ちょうど(480円)横川14時33分、横川14時50分(バス500円)軽井沢15時24分、軽井沢15時42分(420円)小諸16時5分。

横川から軽井沢へむかうバスは、夏休み中ということもあって、子連れの観光客が大半をしめていた。車窓からの眺めがよい。おれは、ぼんやり外の景色に眼をあずけ、揚羽屋のオヤジにもう少しであえると思っていた。今回は、去年のように、どうやって家に帰りついたかわからなくなるほど酔わないようにしなくては、あんなに酔ったのではオヤジの楽しい話も大半おぼえていない、気をつけよう。そう思っていても、飲みだすと、どうなるかわからないが。そもそもオヤジがよすぎるのだ。ついつい飲みすぎてしまう。

揚羽屋行きは、あゆの背ごしをたべ、オヤジと地酒の亀の海を飲むのが目的だった。それが楽しみだということは、6月1日に書いて掲載している。「今年も揚羽屋へ行きたい昨年食べた「あゆのせごし」まだ書いてなかったこと」クリック地獄。それは「「そこに再び会いたい魅力的な人がいるから、またそこへ旅する」のだな」と結んでいる。とにかく、オヤジに会いたい、一緒に酒を飲みたい。一緒に大酒をくらって楽しいひとは、おれにとってかけがえのないひとなのだ。

この記事を載せたあと、いちど揚羽屋へ電話した。あゆの背ごしを食べられるのは、一か月ぐらいのあいだで、あゆの成長に影響する水温の関係で食べられる時期は毎年変わるということを聞いていた。今年は、いつごろがよいか知りたかった。揚羽屋は奥さんが厨房をやり、オヤジが客席のほうを受け持っていたから、電話をすればオヤジが出るものと思っていたが、聞きなれない声が出た。おれは名のらず、ただ今年のあゆの背ごしはいつごろがよいかと聞いた。すると、電話の声は、いったんひっこんだ。いつもより水温が低く成長が遅い、7月にはいってからのほうがよい、8月の上旬ならまちがいない、というような話だった。電話の声の主は、自分では判断つかず、誰かに聞いてこたえたのだ。はて、誰だろうか、オヤジは出かけているのかとおもったりした。



軽井沢の変貌は、ヒドイというか、悪趣味だった。趣きのあった木造の駅舎は壊され、あるいはゴミのように放置され、かわって事務所のスチール机のような実務的計算センターのような、「現代風」の駅ビルになった。そしてすぐそばに、あこぎな西武の顔を臆面もなくさらした、ショッピングモールがのさばっていた。カネの都である。

こういう変化をよろこぶ人びとを、おれは疎ましく情けなくおもった。軽井沢の文化は、歴史も伝統もない、うすっぺらで貪欲な商業主義と消費主義が結びついた、成金文化そのものなのだ。そういう現代日本悪趣味のテーマパークとしてみれば、納得のいく景色だった。



そこへいくと、新幹線からはずされ、信越本線も取り上げられた小諸は、不遇や冷たい仕打ちに耐えながらも誇りを持って毅然と生きる人びとのように、簡素だが渋い深い思慮あるたたずまいを残していた。土地の自然と歴史を呼吸しながら生き、成老病死を従容と受け入れる姿だった。そして、そこはかとなく、モダンがただよう。それは、揚羽屋のオヤジの風貌でもあり生きざまのようだった。かねがね一度は泊まってみたいと思いながらまだ果たせずにいる、むかしのジャズやブルースが聴こえてきそうなオールディーズな駅前のホテルも、そのままだった。



小諸駅から、揚羽屋へ行くには、駅前広場のむかって右の大通り風の商店街をゆくか、左側の昔の面影の濃い通りをゆくかだ。おれはいつも左の道を選ぶ。そして、鉄工所の角を曲がる。曲がらなければ、すぐ北国街道で、そちらからも揚羽屋へ行ける。しかし、この鉄工所の小道が好きだ。ここに立つと、その鉄工所の建物といい、おれが10代つまり1950年代のころのニオイがする。

揚羽屋は、もうすぐ近く、小道を入って、左側奥に見える赤い看板の先ぐらいだ。おれは、急ぐことなく、この風景を胸いっぱい吸い込んだ。そして、ゆっくり歩き、揚羽屋の前に立った。戸を開ければ、オヤジが迎えてくれると思っていた。

しかしオヤジの姿は見えなかった。初めて見る若い女性が注文を聞きに来た。そのことを聞いたのは、いつの段階だったか覚えていない。その女性に「もしかしてエンテツさんですか」と聞かれて、そうだとこたえたあとだったか、その前だったか。

とにかく「オヤジさんは?」と聞くと、「死にました」というこたえがかえってきた。「死んだ?」おれは、なんのことかわからなかった。どういうことなのか考えながら、酒を飲んだ。オヤジは、おれとほぼおなじトシで、一年前にも、ここで一緒に飲み、そしておれはいままたここにいる。だがオヤジは死んだという。それが、二度と再びオヤジに会えないことだとわかったとき、ドッと涙があふれた。

6月26日亡くなったという。その初めて見る若い女性は、長女だった。お子さんが夏休みということもあり、子どもを連れて嫁ぎ先から手伝いにもどっていたのだ。嫁ぐ前は厨房を手伝っていたという。携帯電話の画像を見せてくれた。6月に入ってからの死の直前の写真だった。オヤジは坊主頭で、店の椅子に腰かけ、レンズのほうを見上げて微笑んでいる。やせてはいたが、あったかい、茶目っ気のある、そしてダンディなオヤじがいた。しかし「現物」はいない。

小上がりの、前年そこに座ってオヤジとしこたま飲んだ場所の奥で、生まれて間もない赤ん坊の泣き声がした。いつも見かける娘さんが、乳を飲ませていた。奥さんと厨房にいる次女が結婚し、子どもができたのだった。オヤジは、その孫を見てから死んだらしい。1年来ないあいだの死と生。

奥さんが手がすいたところで出て来て、おれの前に座り、オヤジが死ぬまでのことを話してくれた。前年の晩秋のころか?、なにかのテレビ番組で、グルメで有名なタレントが「揚羽屋のソースカツ丼がたべたい」と話したことから、ソースカツ丼を食べにくる客で、それはもう大混雑で大変だったこと。弱音をはいたことがないオヤジが弱音をはき、年が明けてしばらくしたら体調がおかしくなったこと。ガンが発見されたこと。東京の病院に入院して手術したこと。帰って来て、その日は、ふだんどおりだったけど、ポッと息が絶えてしまったこと。

オヤジは東京の入院中にひんぱんにハガキをくれた、その一通を見せてもらった。ハガキの全面に、「ああ揚羽屋のソースカツ丼を食べたい」というような文字が踊っていた。筆書きの達筆だった。

おれが、6月1日に掲載した「今年も揚羽屋へ行きたい…」のページをプリントアウトしたのを、どなたか客にもらって、オヤジはそれを見て、おれと会うのを楽しみにしていた。亡くなって棺に納めるときには、このサイトの揚羽屋のページをプリントアウトしたものを一緒に入れ火葬に付した。とのことだった。



おれはあゆの背ごしと、いつものように亀の海の、一升瓶を新聞紙で包んだ原酒を飲んだ。あゆの背ごしを食べたあとは、頭と尾の部分をみそ汁にして食べた。いつものように。オヤジがいないだけで、なにもかもいつもどおりだった。たぶん。

夕方すぎると、店内は、ほぼ満員状態だった。みな地元の人たちだ。次女の赤ん坊が泣くと、客が抱き上げてあやした。長女が連れてきた子どもの話し相手になっている客もいた。そのように店は支えられてきて、これからも支えられていくのだろう。奥さんも娘さんも、やってくれるだろう。続くだろう。

どれぐらい過ごしたか、酔いか悲しみか、頭はもうろうとしていた。揚羽屋を出た。夏祭りの夜だった。通りは賑やかだったが、オヤジのいない小諸はうつろだった。でもまた小諸の揚羽屋に来るだろう。あの家族がいるものな。

そして、約一年後、去年の6月5日に揚羽屋に寄った。そして、もしかするとオヤジのいのちを縮めたかも知れない騒動のもとになった、そして、オヤジが東京の空の下から懐かしがった自慢のソースカツ丼を食べた。このことは、またいずれ。

どうもオヤジのことが書き足りない、「追悼」になっていないような気がする。ま、とりあえずこんなところで。揚羽屋さんとオヤジの田村秀樹さんの魅力は、↓下の「揚羽屋トップにもどる」で、ごらんください。

オヤジ〜。もう一度、いや、もっと、なんどでも、一緒に飲みたかったよ〜。愛しているよ〜。


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