今年も揚羽屋へ行きたい
昨年食べた
「あゆのせごし」
まだ書いてなかったこと



(05年6月1日記)

前回、昨年7月13日の訪問記は、「詳しい報告は後日」で終わっているが、そのまま続きを書いてない。書いてないというより、書けなかったといったほうが正確か。なにしろ泥酔状態で、どうやって小諸から浦和の自宅に帰ったかも覚えていないのだから、話の中味もほとんど覚えていない。

でも大事なことを2つ思い出した。

1つは、一昨年の「みたび揚羽屋へ」の訪問記のイチバン下にある写真。気になる揚羽屋の隣のモダンの片鱗が残る建物は、ダンスホールだったと、揚羽屋の亭主に教えてもらったのだった。なるほど、そういえば、と納得。戦後の占領軍が流行らしたものにダンスがあって、都会はもちろん、ちょいとした田舎町にもダンスホールがあった。

もう1つ、亭主から名刺を頂戴して知ったのだが、揚羽屋が経営する温泉旅館があるのだ。佐久市の湯川温泉。これが、佐久市初の温泉で昭和中期からの営業、廃校校舎を移築したという、まあこの揚羽屋らしい風情というか。行ってみたい。こちらに案内あります……クリック地獄

さてそれで、今日は6月1日で、いよいよアユ釣のシーズン真っ盛り。となれば、昨年揚羽屋で初めて食べた「あゆのせごし」が思いだされる。あれを食べたい! と、ちょうど資料整理をしていたら、「週刊ポスト」2000年8月10、17日合併号、グラビア連載の「再現 江戸時代料理」というのが出てきて、見たら、「鮎の筏膾(いかだなます)」つまり鮎の刺身なのだ。

これは、「料理覚え書き」の記事を書いている古典料理研究家の松下幸子さんによると、「江戸期に近い室町時代の成立と考えられている」ところの「庖丁聞書」に載っているそうだ。ま、見た目にこったつくりになっているが、魚を生で食べるのは、単純といえば単純、質朴といえば質朴で、大昔からやられていたことだから、アユの刺身があっても不思議ではない。

平安時代だったかな、貴族が、庶民の女とねんごろになって一晩寝て帰ってきたのだが、口がウンコくさかったという話が、なんだか有名な歌集か物語に載っている記憶がある。当時の庶民は、いきなり川にウンコしたり、貴族にしてもオマルにして、それを下女が川に捨てる。そのウンコを食べて肥えた川魚を庶民はとって食べていた。生で食べればとくにニオイは残る。汗までウンコくさくなりそうな話だが、これこそ現代人があこがれる昔の自然な生活だ。

しかし、前回の訪問記にも書いたように、おれの故郷、新潟県南魚沼も魚野川のアユ漁が盛んなところだが、生で食べたことはないし、話も聞いたことがなかった。揚羽屋で食べた「あゆのせごし」つまり鮎の刺身は生れて初めてだった。

ところが松下幸子さんの記事の下には、わらびの里総料理長の「料理人細工帳」という記事があって、「頭とわた(内臓)鰭(ひれ)を取り除いて薄く胴切りにし、冷たい流水に晒した「背越し」があり」とある。これこそ、まさに昨年揚羽屋で食べたものとおなじ名前の料理だ。しかし下のリンクから前回の写真を見てもらえばわかるが、「頭とわた(内臓)鰭(ひれ)」は取り除かずに輪切りにしたものである。この、わたが、苦味があって、うまいのだ。とにかく、単純に輪切りにしただけのこの食べ方が、もっとも原初的なような気がする。

いま高級そうな「日本料理」や「郷土料理」も、もとは素朴な庶民の食べ物だったものがほとんどなのさ。それを料理人がワザワザ手の込んだものにしてウンチクをつけ、高く売っているわけだ。しかし、初回の訪問記に書いたが、ここ揚羽屋は「地場の「田舎料理」のままである。つまり職人的虚構や文化人的無知やA級B級グルメ・ライターのタワゴトに侵略されてない、ただゆうゆうと風土とともにある日本料理がある」のだな。

亭主は、これを食べるためにわざわざ東京から来る人がいるといっていたぐらいのものだが、こっちは初めてなもので、ギャアギャアいいながら食べてしまった。今年はじっくり味わいながら食べてみたい。昨年はグウゼン食べられたが、食べられる時期が短く決まっているようだから、電話して確かめてから行ったほうがいいな。

それに、まだあの気になるソースカツ丼を食べてない。なにしろ、あの亭主にも会いたいし。「そこに再び会いたい魅力的な人がいるから、またそこへ旅する」のだな。

ああ、揚羽屋へ行きてぇ〜。


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