2006年7月2日 下北沢成徳高校 カルチュラル・タイフーン2006下北沢「都市を紡ぐ」のセッション 闇市と昭和の記憶、大衆の痕跡 報告2 大衆食や大衆食堂から見た東京の町 遠藤哲夫 フリーライター/大衆食の会 ●ご参考ブログ版 2006/07/03「若者文化」を商品化した「若者の街」の後の祭り…クリック地獄 2006/06/26カルチュラル・タイフーン 2006 下北沢 続きの続き『都市/CITYを紡ぐ』…クリック地獄 2006/06/25カルチュラル・タイフーン 2006 下北沢 続き…クリック地獄 2006/06/24カルチュラル・タイフーン 2006 下北沢の顔合わせ…クリック地獄 (2007年10月30日掲載) 以下は、報告書の転載です。実際は、スライドを使って報告しているから、このとおりではない。また、スライドに使用した画像の掲載は省略した。 私は研究者ではなく、大学も出ていませんから正しい論文の書き方や報告の仕方も知りません。フリーライターも大衆食の会も成り行きでなったりできたりしたもので、そのための勉強や何かをしていません。1995年に『大衆食堂の研究』という本を出版し、そのときはまだフリーのプランナーという肩書でしたが、1999年に『ぶっかけめしの悦楽』を出版、これは2004年に大幅に書き足して『汁かけめし快食學』としてちくま文庫から刊行されましたが、そのあいだに『散歩の達人』という雑誌に書いたり、散達ブックスの『東京定食屋ブック』では企画協力をさせてもらいましたが、そのようにしてなんとなくライターという肩書を使う機会が増えただけです。大衆食の会は『大衆食堂の研究』の読者の集まりでして、私が思いついたときに集めて大衆食堂で酒を飲んで騒ぐだけの会です。 私が今日ここにいるのは、長いあいだ、つまり私が新潟県の片田舎から1962年に上京してから日常の生活につきものだった大衆食堂が、最近の10年間ぐらいに再開発などで閉店に追い込まれることがいくつか重なり、そのことを私が主宰する「ザ大衆食」というサイトに掲載していたのですが、直接的には上野駅の地下街の食堂が消えていく様子ですが、それをごらんになった司会の五十嵐さんからメールをいただきお会いしたのが、そもそものキッカケです。 私の本も「ザ大衆食」のサイトも、なにか高邁な理想や探究心があってのことではなく、ただ自分の体験と、それをもとに考えたことを発表しているだけで、かなり主観的なものだと思います。しかし、ほかのやり方を知りませんし、自分としては客観だのなんだのより、これが一番おもしろいので、今日もまた体験と主観にもとづく報告をさせてもらいます。ただ私の場合、1971年秋から主に食の分野で「プランナー」と称し、メーカーの商品開発から流通の市場調査、あるいは飲食店の開発などの仕事をしてきましたので、その体験も加味されます。 まず「大衆食堂は町の生きもの」ということについて。これは簡単にいってしまえば、大衆食堂は土地柄や人間と密接な関係があるということです。とくに、そこにいる人が違うと、まったく違うものになってしまう。それほど人間がものをいう空間です。これは近年のチェーン店のように、産業や企業のシステムがものをいい、ひとは店側も客も、それにしたがわざるを得ない空間とは、ずいぶん違います。 関西の雑誌『ミーツ・リージョナル』2004年8月号では「めし・おかず・汁 食堂一直線」という特集をやっていまして、さまざまな大衆食堂が登場しますが、そこで当時の副編集長の青山裕都子さんは、そのことについて、とてもうまく述べています。 いわゆる中国料理の店と違って、中華食堂は「皿が妙に不揃いだったり、インテリアが和洋中入り交じった脈絡のないものだったり」そういう不揃いの「愛嬌がある」、それに対してビストロ中華店などの場合は、「料理も盛られる皿も、その店のスタイルで完結している。だからこその店の迫力も、そこから生まれる」「中華食堂は乱暴に言うと店が完結していない。その暖簾から、その店のある街や通りを歩く人に繋がっている」「中華食堂はその場所にあってハコと常客とが吉本新喜劇の食堂のように一つのセットになっているから入れ替われない」「つまりそれが店の味と言われるものなんだろうなぁ」 青山さんは神戸の生まれ育ちでして、神戸の大衆食堂を語るときは中華食堂をはずせないほど、安くてうまい中華食堂が町にたくさんありますが、それが青山さんのような「ラーメン酢豚体質」「中華ホイホイ」の人が多い神戸ならではの町の景色でもあります。 ついでに、私の今日の結論を先に言ってしまうと、そういう不揃いな「愛嬌がある」店は、また町の愛嬌をつくっているし、愛嬌を大事にする人たちが住む町であるということです。「店も人も愛嬌がある方が、やっぱりたくさんの人に愛される」と青山さんは書いていますが、これは町にもあてはまると思うのです。 ところで、そのような大衆食堂と町の関係は、東京の場合、どうであったか。私が上京し1962年ころの東京は64年の東京オリンピックにむけて、どっかんどっかん工事だらけでした。まず「大衆食堂は町の生きもの」という場合の町には、いろいろありますが、東京に一番たくさんあって、あまり話題にならない衰退した町というと、都電の一つの停留所ごとぐらいにあった小さな商店街を中心に成り立っていた小さな町でしょう。これらは東京オリンッピクのころを境に町名変更があり、まず町名が消え、やがて実態もなくなっていきますが、新宿でも、柏木という町があり、三光町があり、旭町といったものがありました。1960年代の下北沢駅周辺も、そのようなかんじの町だったと思います。 その商店街には、魚屋や八百屋や肉屋などはもちろん、喫茶店や洋裁店などもあり、そこで生活のほとんどが、まかなわれていました。たとえば、こんなイメージです。 写真は1991年ごろの撮影だったと思いますが、現在の上池袋2丁目の横丁です。池袋駅からも大塚駅からも10数分ぐらいの中間です。こういうところにも小さな商店街を中心に町がありました。正面バスが見えているところは明治通りで、かつては都電の停留所があったあたりです。手前右側にフェニックスという喫茶店、その一軒先の隣は「ドレスメーカー」と看板にあるレトロな「細谷服装店」です。左側真ん中へんに「きくや」という食堂があります。ほかにもとんかつ屋や飲み屋があります。撮影している側の背後は、埼京線の線路際まで住宅やアパートです。 こういう横丁の飲食店は、かつては別の生業、食料や雑貨関係などをやっていたけど、だんだん立ち行かなくなって飲食店に切り替わるところが多いのです。そして、1990年代後半には、「きくや」はカフェバー式の店に変身していました。このへんも、正面に見えるような愛嬌のないマンションに変わるのでしょうか。あるいは、すでに変わっているかも知れませんが。 ついでに、いくつか、そのような町の生きものとしての大衆食堂を見てみましょう。駒込駅から本郷通りを10分ばかり御茶ノ水の方へ向って歩いたところにあった、「たぬき食堂」です。1951年創業。1995年奥さんが亡くなり、2000年にご主人も亡くなり、閉店しました。外の看板をのぞき、ほとんどはご主人がつくりました。 つぎは、西日暮里の竹屋食堂のなかです。1959年の開店ですが、皿やイスなど、ほとんどは閉店の店からもらってきたもので、まったく揃っていません。 つぎは、荻窪駅北口に残る闇市跡の北口商店街のなかの富士食堂です。外側は二軒の入口ですが、なかは一つです。 つぎに駅周辺の、いわゆる闇市跡の町と大衆食堂です。まずは、再開発され消えてしまった江戸川区JR総武線平井駅南口前、平井3丁目30番地の一部です。居住者の全退去は97年10月末、写真は、その前8月から10月にかけて撮影しました。昨年近くへ行ったので、再開発後の様子を写真に撮りました。 ここには「福住」という大衆食堂がありました。10人も入れば一杯になってしまうような店を「平井の母」と呼ばれた72歳の女性が、ご主人の亡き後一人でやっていました。もとは、この奥にあった花街の近くで甘味喫茶をやっていたそうです。そして、アメリカ占領下1949年8月31日に死者135人をだしたキティ台風が関東を襲って、平井一帯は高架の駅を残して水没しますが、そのあとを買って移ってきました。店の中の柱には、大人の頭の上の高さに、水没のあとが残っていました。とにかく、ここで娘さんを一人育て嫁がせ、自分も一人で生きてきました。このすぐ近くには、にぎやかな商店街があって、仕入れなどは、ほとんどそこでしていました。まだ、そのように生きて行くことは可能だったでしょう。 「昭和20年の戦後だよね。このへんは原っぱに小さな池があったの。そこに引揚者がバラックをつくり住みついたんだよね。土を盛り、お稲荷さんをおき、商売をはじめたのさ。ああ、そうそう、闇市マーケット」(昭和25年にからこの一角に勤め、結婚して住みついたひと)「平井駅前は汚い汚いと言われたけど、どこも同じ駅前になって、今じゃ汚いのも希少価値だと、わたしゃ言いたいんだよ。だけどね、建物が傷んでくるとほっておけないし、自分だけで建て替えるといってもそれぞれ狭い地所だからね、まわりと協力してと思っていたら、21階、21階ってことになっちまって。でも、やるしかないんだよ。みんな年とって先がわからないから、そういうこと」(ある飲食店の女将)「平井に21階はいらないよ」(客の30歳ぐらいの大工) 私は、この横丁の退去の日を、『散歩の達人』という雑誌でルポし最後に、こう結びました。「ところで、解体がウワサになってから横丁を訪ねる客人が増えたそうだ。こういうところがなくなるのは、こんなにいい人たちがいなくなるのは、「さみしいね」「惜しい」「残念だ」と、みな同じことを言う。それを聞いた近所の常連おばさんが言った。「そんならもっと来てくれたら、こんなことにならなかったかもしれないのにさ、もう遅いのよ」 上野駅地下食堂街の話をしましょう。上野駅の地下には団体客用の広場があって、その周辺と地下鉄と京成線の駅を結ぶ通路のへんに、たしか多いときには50軒から60軒の店がありました。大部分は飲食店でしたが、地下鉄と京成線の駅を結ぶ地下道には、クスリ屋や小さな床屋などもあったと記憶しています。順次JRなどにより退去させられて、最後の生き残り「おかめ」「柳家」「グラミ」の3軒は、大家である東日本キヨスク、もちろんその親会社はJRですが、彼らに退去を命じられ、2002年11月中にそれぞれ閉店、半世紀をこす歴史の幕を閉めました。それぞれ常連がいてにぎわっており、自ら閉店の理由などありませんでした。たとえば、グラミは、こんな感じでした。 結婚していますが、看板娘もいました。通勤途上のサラリーマンを中心に、アメ横の従業員や、出張のときには決まって立ち寄る人や鉄道マニアなど、常連客が、たくさんいました。店の壁には、客が旅先で撮影した写真などが飾ってありました。 「おかめ」のなかには、一常連による色紙が飾ってありました。「當店は客の気持をやわらげる 憩の店なり おかめ賛へ 一常連」と書かれています。これは大衆食堂に集まる、働き生活し憩う人たちの全てのココロを代表しているといえます。 また、100万円もする大熊手には、千円札がたくさんはさんでありました。これは浅草の場外馬券売り場へ通う客が、ゲンかつぎにはさんだり、また勝つと礼にはさんだりで、それは新しい熊手を買うときの「資金」になりました。上野から北東地域には非白人系の外国人労働者がたくさん住んでいて、よく利用していました。写真は、南米系とフィリピンの夫婦です。カツ丼をフォークで食べていました。「うまいか」と聞くと、「うまい」と答え、ほかにどんなものを食べたことがあるかと聞いたら「ラーメン」と答えました。いま、この場所は、単なる通路やエスカレータになっています。 都民のみなさまのなかには、あそこは戦後の汚い危ない怖い嫌な記憶しかないところ、競馬通いの下品な連中が立ち寄る店といった評判もありました。その人たちのほとんどは、実際には利用したことがないでしょう。 私が『大衆食堂の研究』を出版した1995年ごろは、いまはさいたま市になった与野市に住んでいました。京浜東北線与野駅が最寄駅で、その西口の駅前商店街には「いづみや」という大衆食堂がありました。この商店街には米屋、肉、魚、野菜のほか、おでん種屋などもありました、ボタン屋もありました。再開発後は、こんなアンバイです。 消えた話は、これぐらいにしましょう。東中野駅のすぐ北側、ホームから見えるところに「ムーンロード」の看板が出ています。その一帯は、やはりかつてマーケットだったところです。そこに1950(昭和25)年創業の大衆食堂があります。「東中野食堂」です。いい安い大衆酒場もありますよ。高い酒場もあるようですが。 京王線笹塚駅は一度駅周辺が再開発されましたが、ほんの駅周辺だけで、甲州街道と反対の南側には観音通り商店街があって、1918年(大正7年)創業の常盤食堂があります。建物は戦災で焼け、その焼け跡で戦後すぐに営業を始め、1965年に一度建て替え、そのままです。この店内のメニューが書かれた行灯というスタイルは、当時流行してものです。ここは、すぐ前に、米屋や八百屋があり、写真の一軒おいたむこう隣の豆腐屋の豆腐をつかっていました。この豆腐を、味が濃すぎて食えないという若者が増えて困ると言っていました。肉は、甲州街道の方にあるところから配達でした。みな近所だし長い付き合いだから、おかしなものは扱わないとも言っていました。安全や品質とは、そのように文化のモンダイなのです。こういう関係のなくなったところでは、いい大きな道路や建物ができ、きれいな駅前ができたところで、よい暮らしや安全の保障にはならないということです。 常盤食堂の行灯のメニューの先頭、ガムテープが貼ってある下は、ビフテキつまりビーフステーキです。1960年代、大衆は、大衆食堂でビフテキを食べたのです。大衆食堂には、コーヒーも、ありました。出回りだして間もないインスタントコーヒーですが。これらは、年齢や世代や嗜好などで生活を分類し、そのライフスタイルとやらによって違うスタイルの飲食店をつくる方法が普及する前、別の言い方をすれば、人びとや町がライフスタイル論とやらによって分解され産業的に管理される前の状態です。そのころの大衆食堂では、ギターを持った若者も、浪花節をうなる土方のオヤジも、白ワイシャツのサラリーマンも、一緒の空間でめしを食べていました。 もう一軒、そういう大衆食堂を紹介しましょう。この町は、高い大きな建物や道路より、むかしながらの商店街を発展させながらにぎわっている町としてもおもしろいと思います。池袋から埼京線で、わずか二つ目、北区十条駅前の十条銀座にある大衆食堂「てんしょう」です。昭和22年(1947)開店だそうで、内外装とも少しずつ修正的手を加えていますが、表の看板などは、むかしのままです。そして、なかの正面のメニューを見ると最初の方に、堂々とビーフステーキ700円があります。この近くには、大衆酒場ファンのあいだで有名な斉藤酒場もありますが、時代に媚びないで「自分たちが大切だと思うことを、ごくアタリマエのように大切にし続ける気性」を感じる商店街です。 新宿の南口前という位置に、この場所で大正4年(1915)創業の古い食堂があります。長野屋食堂です。ここは新宿駅周辺が闇市で名を売る前から、甲州街道の要所にある食堂として、またすでに新宿の表層の下にかくれてしまったかのような、木賃宿の新宿つまり「ドヤの新宿」を物語る食堂でもあります。 長野屋の右に見える甲州街道の先には、すぐ明治通りとの交差点があって、そこを右にまがると、右が高島屋で左が現在の新宿4丁目、そこだけせまい隔離されたような新宿4丁目で、かつて旭町と呼ばれ明治末期から続く都内有数のドヤ街です。現在でも、その面影を残す建物があります。この建物は、一つの階をさらに上下半分に仕切って泊めた名残りですね。このドヤ街の住民たちが、この長野屋や、その裏に続く飲食店の主な客だったころがありました。 1970年ごろ下北沢で飲んでいた私は、下北沢が「若者の町」になるにしたがい寄り付かなくなり、このあたりでよく飲むようになりました。隣とは板一枚で仕切られているだけの、裸電球がぶらさがっている小さな飲食店が密集していました。 1970年代はファミレスやファストフードの店が普及し、「食のレジャー化ファッション化」と言われました。1966年1月1日の読売新聞は「主婦の願いと現実」と題して記事を載せています。 そこには「家族そろって月1回、一人当たり三百円の外食をしている」。あなたのレジャーとは?とたずねてみたら、こんな答えが一番多かった」「それにしても、主婦たちのレジャーが外食とは、なんともつましいことか。アメリカではふつう一年間に、ドライブ二十一回、ハイキング十八回、海水浴六回、観光旅行六回など平均して九十二回のレジャーを楽しんでいるというデータがある、そして、現在、西暦二千年のレジャー計画をたて、着々と実践しつつかる」とあります。 読売新聞が二千年に、その検証をどうしたかは知りませんが、アメリカを持ち出して日本のレジャーの貧しさを嘆くかのような、しかし一片の創造性も文化性もない新聞記者の脳みそではありませんか。ここにはエネルギーを消費しカネのかかるレジャー消費こそレジャーであるというような脳みそが見られます。 私には、それが「レジャー」だったかどうかに関係なく、お祭りの日に大衆食堂で家族で食べたラーメンやカツ丼の思い出のほうが、重い文化的な価値を持っているように思えてなりません。それはある人にとっては、横丁の駄菓子屋のラムネだったりするでしょう。ともかく読売新聞の記事は、そういう文化的な価値に、まったく関心がないように思えます。 そうした背景のなかで、ファミレスやファストフードが登場しました。その象徴ともいうべき、マクドナルドは、1971年7月に銀座4丁目の三越の銀座通り側に一号店を出店しました、まもなく新宿三越の新宿通り側にも出店します。 これは、どういう食なのかというと、レジャー化ファッション化した食だったといえるでしょう。よくマクドナルドで立食いが一般化したかのようにいわれますが、そうではありません。 たとえば、現在でも秋葉原の駅に「ミルクスタンド」というものがありますが、牛乳とパンを売っていて、これは私が上京したころは、あちこちにあって、新宿の駅などは多いとホームに二ヵ所、そのほか通路や駅舎の表など、いたるところにありました。どの駅も似たような状態でした。そこで、立ったまま牛乳を片手にアンパンなどをかじって、仕事や学校へ向ったのです。朝のラッシュ時には、売店の前は大変な混雑で、私のように気の弱いものは割り込むのに一大決心が必要なほどでした。それが、ごく日常的な風景だったのです。 つまり、マクドナルドの立食いは、そういう流れとは違う、かっこいいレジャーな気分、かっこいいファッションな気分でした。それは、とくに「若者文化」のレジャーやファッションの代表的なエレメントとして成長していったといえるでしょう。そして、そのような「若者文化」が東京の表層を覆うにしたがい、大衆食堂のなかのある部分はライフスタイル論によって分解され独立しました。 たとえば牛丼チェーンや天丼チェーン店のようなものになったり、あるいは若い女性が好むおしゃれなレストランだったり。しかしコアな大衆食堂は浪花節のように古臭い貧乏臭いイメージのものとして振り向きもされず、絶滅種の側へ追いやられました。これは少々一方的な流れだったように思えます。 マクドナルドが、いつ下北沢に出店したか記憶がはっきりしないのですが、最初は南口の階段を下って、すぐの右側にありました。1974年12月発行の雑誌『都市住宅』の特集は「駅前スコープ」ということで都内と近郊の駅前の写真を載せています。全部で221ヵ所で壮観ですが、そこには下北沢駅の南口と北口の階段を下りたところの写真があります。北口にはピーコックがあって、南口には、私の記憶のように下りて右側にマクドナルドがあります。 私は1967年から4年間、経堂と鶴川に職場があった関係で、住まいは町田でしたが、祖師谷大蔵と経堂と下北沢ではよく飲みました、とにかく酒が好きなもので。そのころの下北沢には、バラックのような飲み屋が、たくさんありました。土間に、床が土ですね、その上にテーブルを置いて、裸電球がぶらさがっている。北口マーケットよりはシッカリした建物だったように思いますが南口の、このマクドナルドの先にも、現在の「雷や」やその裏側あたりになるでしょうか、そういう飲み屋がけっこうありました。 写真のアーチがある左側、茶沢通りの方へ向かう路地の角に、代一元という中華屋があって、そこもよく利用しましたが、そのころは二階建ての木造だったと思います。そこがビルになって、代一元は地下にもぐってマクドナルドが1階に入ったのは、いつのことかまったく記憶にありません。そのころには、下北沢の通りが若者だらけになって、どうも肌に合わないかんじで、仕事場も71年秋から市ヶ谷に変わりましたし、もっぱら新宿のバラックで飲むようになりました。それでも、イチオウ仕事の関係で、話題の店などには行きましたが、イタトマなどは、若い女でも連れて行かないことには恥ずかしくて入れない雰囲気でした。 いま考えると「若者の町シモキタ」はマクドナルドから始まったのかも知れません。それは食のレジャー化ファッション化であり、そうして外食の産業化つまり外食産業の形成と外食産業による支配が始まったのですが、それは町のレジャー化ファッション化だったといえるし、「若者文化」は、その先導役だったような気がします。 いま私が使っている「若者文化」という言葉と、下北沢に対して使われる対抗文化としての若者文化は、あるいは違うものかも知れませんが、どのみちそれまであった生活文化を、工夫を加えながら生きのばし成長させ、ギターを持った若者も浪花節をうなるオヤジも一緒にめしをくう猥雑を、あるいはそういう不揃いな猥雑を、猥雑なまま洗練させてきたわけではないように思います。 そういう雑多な空間は汚いと否定され整理整頓され、きれいでおしゃれであればよい。あるいは、若者だけがいい気分の空間をつくってきた、あるいは特定層の女性顧客だけが満足できる飲食店とか、そう思えて仕方ありません。 そして、その若者や女性たちは、いま新宿の思い出横丁やレトロといわれる酒場や食堂で「わぁ、東南アジアみたい、大好き」とかいうのです。ま、素直でいいのですが、どこか、おかしい。そりゃ、あんたが見ようとしてこなかっただけじゃないかといいたいわけですね。 しかし、大衆というのは猥雑でしたたかでありますから、そうは簡単にひっこみません。再開発できれいになった、その外側へ、また自分のやりたいようにやれる店をつくります。それは結果的に、捨てられていた建物や空間を生かすことになります。その二つの例を、ここで紹介して終りにします。 一つは、さきほどの与野の「いづみや」が閉店のあと、そこの料理をつくっていた従業員夫妻が、そこから奥のほう、つまり駅からは10分ぐらい歩く場所で、なんの商売をやってもうまくいかなかった家を借りて大衆食堂を始めました。「大衆食堂 横丁」ですが、今年で9年目、不況の時期に始めて、よく持ったと思います。そこへ行くと、以前の「いづみや」の常連にも会えたりします。これは隣り合った二軒の店、一軒は和装の小物屋、一軒はスナックを借りて、あいだの仕切りをとってつなげただけです。若い人たちなら、もっと工夫をこらし、もっと愛嬌のある空間にできると思います。 もう一つは、経営するご本人たちは「うちはバーです」といっていますが、常連たちは「これは、いまの大衆食堂ですよね」という、経堂の「太田尻家」です。そもそも太田尻家の奥さんは、『大衆食堂の研究』の表紙イラストや装丁をやった方で、その後ご夫婦で大衆食の会にも参加された方たちです。 彼らは、一昨年、「バー」をやろうと場所を探して行きついたところが経堂のすずらん通りという古い衰退著しい商店街で、しかも家賃の関係で経堂駅から10数分歩く奥です。ガス水道工事以外は、すべて自分たちで、イスやテーブルや食器にいたるまで、自分たちで作りました。楽しく酒を飲み、安く腹いっぱい食べられます。なによりくつろげます。地域の、若者から私ぐらいの年の方までが、寄ってはくつろいでいます。 こういうと、それなら再開発しても、それなりに大衆は場所をみつけてやっていくからいいではないかということになりそうですが、そういうことを言いたいのではありません。どうせそうなるのだから、もっとカネを有効につかおう、自分たちの工夫でつくる町のためにカネはつかおうということです。自分たちの工夫で空間を生かしきることが大事なのだ、そこにある歴史を生かしきる、ということですね。再開発に反対というのは、そういうことではないかと思います。 不揃いな「愛嬌がある」町は、若者だけとか、音楽好き芝居好きだけとかではなく、そこに関わる人たちが、そこに関わる歴史を飲み込んで、だからそれは単純ではなく複雑で工夫が必要で不揃いな結果になるかも知れないけど、自前でつくるものではないでしょうか。 ハコにカネをかけイベントなどで宣伝し、その分は客から取り返せばいいやといった、自分たちの工夫のない町づくりは、おなじようにカネをかける競争になるだけで、だからといってよいカネが居つくとはかぎらない、それは消費の悪循環になるだけだと思います。かつて銀行がすすめるままにカネを借りハコに投資し、その結果、銀行に全てを奪われる経験はたくさんしているはずです。 自分たちの工夫で血のかよった付き合いができる「愛嬌のある」町や店をつくることです。少なくとも大衆食堂と町の関係からは、そのように言えると思います。 ザ大衆食トップ│地位向上委員会|ヨッ大衆食堂 |