江戸っ子食彩記 2
(「月刊ツインアーチ」03年8月号、東京商工会議所

うなぎ

  土用の丑の日は鰻(ウナギ)ということになっている。その土用とは、そもそも立秋の前の十八日間をさす。鰻を食べると夏負けしないという「土用の鰻」は、平賀源内(1726〜1779)が売れなくて困っている鰻屋のために書いた「本日土用の丑の日」の看板がルーツだとか。出どころ不明の話だが、江戸の庶民も、こう暑いと鰻を食べたい気分になったのだと思うとおもしろい。
  幕末の江戸の風俗を網羅し1853年ごろの完成らしい「守貞漫稿(もりさだまんこう)」(喜田川守貞著)には、店売りの鰻屋のほかに担ぎ売りの鰻屋が見られる。江戸の隅々で鰻は売られていたようだ。
  江戸の庶民は、とりわけ鰻について、江戸風にこだわったようだ。なにしろ江戸前以外の産地のものを区別して「旅鰻」といったぐらいだからスゴイ。
  こだわりは料理法についてもいえる。つまり鰹節のダシと味醂や醤油をつかう味付けだ。それは江戸の料理の特徴だが、まさに蒲焼のタレである。さらに関西では腹から開き頭つきの丸ごと、身の側から焼くのだが、江戸は背から開き竹串に刺して、皮の側から素焼きし、蒸してからタレをつけて焼くというぐあいである。鰻の蒲焼は、江戸庶民の江戸風へのこだわりの固まりなのだ。それを、新しく生まれ力強く興隆していく江戸庶民文化のシンポルとみなしていたのではないか。
  鰻は古くから食べられていたと思われる。万葉集にある「夏痩せに良しといふものぞ鰻捕り喫せ」という一文は有名だが、どうやって食べていたかはわからない。蒲焼という方法もいつから始まったのかはっきりしないが、丸のままブツ切りにして縦に串に刺して焼いていて、それが蒲の穂に似ていたから蒲焼と称したのだろう。そして裂く技術と、そのための道具、それにタレの材料が揃った江戸中期ごろから、ひらいて串に刺した蒲焼が流行したのだろう。それは平賀源内が活躍した時代である。今では鰻のほとんどは「旅鰻」になってしまったが、落語「素人鰻」に登場する鰻屋といわれる店など江戸期からの暖簾の鰻屋は今でもあるし、なんといっても「土用の鰻の日」は健在だ。

●色川……創業は文久元年。おっかないが優しい浅草っ子六代目の主人が一串一串丹念に備長炭で焼く。台東区雷門2-6-11。電話03(3844)1187


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