江戸っ子食彩記 1
(「月刊ツインアーチ」03年7月号、東京商工会議所)

天ぷら

  「てんぷら」「天ぷら」「天婦羅」「天麩羅」表記もいろいろだが、天ぷらの話というと、安土桃山時代に宣教師が伝えた、家康は天ぷらを食べ過ぎて死んだ、山東京伝が「天麩羅」の名前をつけた、といった歴史的根拠のないものばかりで、その由来の真相がなかなか解明されない。
  たとえば「天ぷらとは、どういうものか」正確に答えられるひとは意外に少ないようだ。「コロモをつけて油で揚げる」では、肝心なところに欠ける。また関西にあって天ぷらは、関東でいう「さつまあげ」でありコロモはつけない。コロモをつけたら「衣揚げ」である。
  コロモをつけ「タップリの油で揚げる」ということでなければならない。この料理術こそ、天ぷらを日本を代表する料理にした、江戸庶民の発見であり智恵なのだ。西洋や中国からの揚げ物の伝来話はあるが、いずれも鍋に薄く油をはり焼くように揚げる方法だから、かつての薪と炭の台所で普及するには、おそらく火の利用において困難が多すぎただろうと思われる。そこで先人達は独創力をもって「タップリの油で揚げる」天ぷらを生んだ。
  おりしも江戸幕府の安定が豊穣をもたらし、タップリの油が可能だった。そこに都の賑わいを謳歌する気風のよい庶民がいた。でなければタップリの油を使う天ぷらは普及しなかったのではないかと想像したい。油をケチっていてはダメなのである。
  江戸前つまり東京湾の魚介類を使い、厚めのコロモをかけ、タップリのごま油で揚げる江戸の天ぷらの料理術が確立するのは、江戸期の中頃らしい。戯作者にしてグルメの蜀山人が若い頃に「左に盃をあげ、右にてんぷらを杖つきて」と書いているという説は根拠があるようだが、それがどんな料理かはわからない。しかし「近世職人尽絵巻」の「天麩羅」屋台の絵では、二本差しの武士が他人に顔を見られないように手ぬぐいで顔を隠して食べている。つまり下層庶民のファーストフードとして登場している。
  いずれにせよ天ぷらは庶民のあいだで生まれ普及したと考えられる。天ぷらにまつわる話題を提供してくれているのが山東京伝や蜀山人といった庶民に人気の戯作者であることを考えるとなおさら納得がいく。一七〇〇年代後半に江戸の町で天ぷら屋台は増えた。当初は天ぷらは串に刺して揚げ、大きな器の天つゆにつけ、大根おろしを使って食べたようだ。いまのような高級な「お座敷天ぷら」は幕末に生まれ、その後普及したらしい。

●大黒家……創業以来116年の歴史を誇る老舗天ぷら店で、お昼時には行列の出来る人気店として有名。台東区浅草1-38-10。電話03(3844)1111。


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