駅前食堂考 猪苗代、会津若松
(04年5月31日版)



5月某日。午後1時ごろ、降りたところは、磐越西線猪苗代駅。猪苗代湖のある町の、猪苗代湖に歩いて行ける駅なのだが、猪苗代湖なんかかんけーねぇーヨという感じで、なんにもないわびしいさみしい猪苗代。駅前広場に面して、営業していたらレトロないい感じと思われる、あるいは季節営業なのかもしれないが、閉店した喫茶店のたたずまいが、廃墟感をふりまいていた。



駅前広場の投げやりな観光案内地図看板のそばに、比較的あたらしい、大きな石碑があって、レリーフがはりつけてある。近づいてみると、野口英世と母親と恩人の男性教師の胸像だ(ここで、父親のことを考えてはいけない。立身出世物語には、アノ豊臣秀吉だってそうだが、母親と恩人の男がいれば十分なのだ)。

そういえば、野口英世は猪苗代の出身で、こんど日本銀行券に印刷されるのだった。レリーフの横には、大きな文字で「忍耐」。なるほどねぇ、忍耐か。ここは「忍耐観光地」か、日本中の忍耐を集めた「忍耐テーマパーク」にしたらどうか、それもよいだろう。

駅前の通りをまっすぐ歩く。投げやりな観光案内地図看板を見たところでは、そちらに猪苗代湖がありそうな気がした。だって、駅の出口も広場も町並みも、こちら側にあって、反対側は田んぼが広がっている。しかし、駅前から直線の道を歩けど、猪苗代湖は見えてこないし、山がせまってくる。おかしい。まったく人通りがない。自転車に乗ったオヤジが来たので、とめて聞いた。「猪苗代湖は?」「えっ?」オヤジはびっくり顔。「猪苗代湖へ行きたいんですが」「こっちに猪苗代湖はないよ、駅のあっち」

忍耐、忍耐、トボトボ駅へもどる、しかし、もう猪苗代湖へ行く気がしない、もともと猪苗代湖はどうだっていいのだ、酒だ酒だぁぁぁ。人の気配のない駅前に近づくと食堂が三軒並んであった。駅に一番近い一軒に入った。

……と書いていると長くなるな。ようするにね、それで「煮込みカツ丼」を食べたのだ。しかし、ほかの客が「カツ丼」を食べているのを見て、シマッタ「カツ丼」にすればよかった、と思ったのである。


正面奥が猪苗代駅、左側奥から順に、「市松」「かくだい食堂」「あまの食堂」

予備知識がなかった。事前にガイドブックなどを調べるということはしない。日本中どこへ行っても、食べるものと酒だけは、ある。それで十分だ。必要な時刻表をネットで検索し、プリントアウトしてもっていく。あとは、気の向くまま、でたとこ勝負。旅の感興のためには予備知識は不要だ。

だから、その駅前食堂に入って、テーブルに陣取りながら、壁のメニューをチラッと眺めて「煮込みカツ丼」と「カツ丼」があるのを見て、ああ、このへんの「カツ丼」は「ソースカツ丼」なのだなと知った。ついでに、ちょっと値段が高いじゃないか、ま、観光地駅前食堂値段か、味は期待できないね、嫌な思いさえしなければいいさと思った。

そして、とにかくオレはいま、卵とじのカツ丼を食べたいのである、と、煮込みカツ丼を注文した。メニューをじっくり見て検討するという習性がない。パッと見て、パッと決める、数十秒とかからない。その日は、ちょうど雨上がりで寒く、しかも歩いて猪苗代湖まで行きそこねたあとだから、「煮込み」という気分でもあった。もちろんビールも頼む。これさえあれば嫌な食堂などない。

オレのすじ向かいのテーブルに、先客の若い夫婦がいた。食堂のオカミと話している内容と言葉から、近所のひとではないが、ホボ「地元」のひとである。なにかを見て来たらしい。その印刷物を広げていた。彼らのところに、「カツ丼」が運ばれた。大きな深い、漆器風のドンブリ。男が、ふたをとるとあらわれたのは、見るからにうまそうなふっくらした大きなカツだ。そこに、一緒に出てきた小さなツボから、濃いこげ茶色のドロリとしたソースをかけるではないか。うまそ〜。おれは、シマッタ、と思った。これは、ここの得意料理にちがいない。

男と女は、大きな一切れを、アングリ口に入れて噛み、そして顔を見合わせ、「うまいねえ」と官能の言葉をかわした。男が、オカミの方をふりかえって、「うまいよ」と言った。するとオカミはテーブルに近づいてきて、「そうでしょ、うちのソースだからね」というようなことをいい、オカミは調理場にもどると、ソースの入った両手におさまるぐらいの大きさのツボを持ってきて、彼らのテーブルの上においた。おれは、ますます、後悔の念が高まった。男も女も、うれしそうに、ツボからソースをすくっては、カツとめしにかけて食べる。おれの後悔の念は、ますます高まるのだった。

しかし、煮込みカツ丼は、十分うまかった。なによりも、おどろいたのは、漬物だった。うまい、こんなにうまい漬物はひさしぶり、というぐらいうまかった。おれは、厨房のなかを見た、料理をするのは、小太りの中年女性だった。このボリュームに、この味なら、けっして高くはない。しかし、やはり、「カツ丼」も食べてみたかった。



旅から帰って忙しくしていた。やっと一段落というところで、そうそう、『駅前食堂』という本があったな、もしかしたら、この食堂が載っているかもしれないと思ったのは、その本は東北地方の駅前食堂を取材した本だったという記憶があったからだ。本棚から探し出したら、やはりそうだった、「ぶらり東北、各駅停車の旅」なのだ。文=中原淳さん、写真=岩松喜三郎さん。山海堂という鉄道関係の本をたくさん出しているらしい出版社から、1999年8月の刊行だ。写真が、たっぷり。あらたまってみると、このフィールドワークは、スゴイね。

新幹線の開通で駅ビルのなかに「移転」した「元駅前食堂」など、地域と鉄道の盛衰の様子が、駅前食堂を通してみられる。それに大衆食堂や大衆食には、地域性と共通性、二つの側面があるわけだけど、それが象徴的にあらわれているようだ。

猪苗代については、「不発に終わった猪苗代駅前」とある。彼らは、「猪苗代駅に午前七時四十分に到着」だ。「ところが…。駅前に大きく構えた「市松」「かくだい食堂」「あまの食堂」といった観光客相手の食堂は、シャッターを下ろしたまま。国際観光都市と銘打った猪苗代駅前は、朝の冷気に静まりかえっていた。二人は重い撮影機材を二分しながら、まだ停車中の電車に素早く引き返したのであった」

おれが入ったのは、「市松」だ。駅側から「市松」「かくだい食堂」「あまの食堂」の順にならんでいるのだが、その順番で、だんだん建物が古めかしくジャンクなたたずまいになる。つまり駅に近いほど、儲かっていそうなたたずまいなのだ。今回おれは、おれの貧乏趣味に反し、その一番儲かっていそうな食堂に入ったというわけだ。

ところで、『駅前食堂』のかれらは、磐越西線で猪苗代からさらに西へ、会津若松へ向かう。おれも行きました会津若松。行く前に、この本を見ていたら、会津若松に着いたらすぐ、この「マルモ食堂」に寄ったと思うのだが……。この写真は、もう電車に乗って帰らなくてはならない夕暮れ時なのだ。写真を撮っている後ろは駅である。



猪苗代では食堂に入れなかった『駅前食堂』の2人は、ここでは取材できた。「創業百年の老舗食堂」と小見出しにある。「八時十二分、終点会津若松に着く。駅前広場の向こう側に「マルモ食堂」の看板が見えた。だが肝心の食堂入口が見えない。歩道に突き出た地下通路出入口の建造物が邪魔をしている」……地下通路ができて「目と鼻先の向こう正面に行くにも、階段のある地下通路を通らなければならない」、この写真にある横断歩道はなかったらしい。もともと不要な地下通路をつくったのだろう。そういう、愚かな政治のザンガイは、あちこちの駅前で見ることができる。

「マルモ食堂」については、写真も含めて約7頁ついやしている。「伝統にあぐらをかくことなく挑戦を続ける駅前食堂の姿に、老舗ゆえのパイオニア精神を見た思いがした」。ノスタルジーに陥ることなく、時代の変化と行政の愚かさの中で、たくましく生きる駅前食堂や人びとの姿をとらえている。

話が長くなるので、とりあえず、こんなところで。

むふふふふふ、もちろん、会津の旅では、飲んだくれたのだ。しかし、会津の酒は、よくなった。おれの故郷、新潟県六日町は、会津藩の飛び地だった。幕末の代官は「遠藤」だった。自刃した白虎隊員のなかにも、「遠藤」がいる。おれのオヤジも若いころは、会津地方の酒蔵へ出稼ぎに行ったりしたらしい。


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