したたかな魚肉ソーセージ
(03年4月12日記)
魚肉ソーセージはしたたかに生きていると思う。これが生まれたのは、戦後の何年だったか覚えてないが、誰もが、したたかに生き抜かなくてはならない時代だった。その根性を凝縮したようなブツだといえる。これがないと、おれの、とりわけ成長期の食風景の思い出は、じつに味気ないものになってしまう。
そもそも、これは魚肉をつかった、分類的にはカマボコと同類の魚肉練り製品でありながら、「魚肉ソーセージ」とやったあたりが、したたかだ。占領下で広まった欧米風のファッションのなかを、したたかに生き抜く伝統の姿。
魚肉で出来ているのは知っていたが、それがまったくカマボコと同じ仲間だと知ったのは、1971年、おれはもう20歳代の後半だった。なんと、その年の秋、某企画会社に転職したおれが「企画担当」という肩書の名刺を持って担当したクライアントが、魚肉ソーセージで有名な、いまのマルハ、当時の太洋漁業の宣伝課や市場調査課や販促課だった。そして、下関の工場で、この魚肉ソーセージなるものが、どのようにして出来るか、詳細を見学取材し、そのケーシング技術は大きな発明であると知った。
だが、そのときすでに、魚肉ソーセージはじつにアブナイ状態にあった。直接的にはチクロ問題からだったが、缶詰やハムやソーセージが悪い食品にされ、とくに魚肉ソーセージはニセモノ、インチキ呼ばわりされ、売り上げは急速に落ち込んでいた。
カマボコは「自然食品」なのに、魚肉ソーセージは違うという消費者のイイカゲンな認識の前で、なすすべもなく、ま、「自然らしく」装うために、かつてはみんなが喜んだハデハデしい濃いピンク色の包装を薄いピンクにしたり、「魚肉ソーセージ」と誇らしく日本語だった表記を、横文字系にしたり、あれやこれや、知識レベルは低いが「自然派」を気どるウルサイ消費者のために努力したが、売り上げはサッパリ改善されなかった。
で、いつごろだっただろうか、もうおれはマルハの仕事から離れてだいぶたっていたが、これが太らないヘルシー食品として注目されたのである。んでまあ、まだ、したたかに生きている。
本当は、魚肉ソーセージのほうは、本質的な変化はない。人間様のほうが、コロコロ変わったのである。ま、おれも、食品のマーケティングに首を突っ込まなかったら、コロコロ変わるイイカゲンな自然食品派だったかも知れないが。
つい最近、駅のホームのベンチで、おれと同じぐらいのトシ、つまり60歳ぐらいと思われる2人連れが、缶ビールを飲んでいた。なんとなくうらやましく思いながら見ていると、1人がコートのポケットから、魚肉ソーセージを2本だし、1本を相手に渡し1本を自分で片手に持ったまま、歯でカジって外の包装をとり、そして、なかのケーシングの金属クリップのところに犬歯をあてカジると、ミゴトに包装のフィルムのつなぎ目をくわえたまま引いてタテに裂き、そしてやはり歯で中身を出し、ガブッと食べた。片手に缶ビールを持ったままである。
オオオオオ、オミゴトおおおおお〜〜。おれは駆け寄り手を握りたい衝動にかられた。そのミゴトな「歯さばき」、あなたは魚肉ソーセージを、よく知っている。そうやって、おれたちは魚肉ソーセージを食べ、愛してきたのだ。
だがしかし、いま包装を見ると、「取り扱いの注意」のところに「歯を損なう可能性がありますので包装に使用されている金属クリップ及びフィルムを歯で噛み切らないで下さい」とある。じつは、おれは、それどころじゃない、クリップのとこをガリッとやろうとすると……アワワワワ、入れ歯がポロッとはずれてしまうのだ。ああ、無情。写真は、庖丁でクリップのところに切れを入れ手でむいた。
おれはそんなアンバイなのだが、どうか魚肉ソーセージよ、これからもしたたかに生きてくれ。
●故郷の新聞「新潟日報」に書いた連載「食べればしみじみ故郷」の「41、魚肉ソーセージ(02年12月9日)」もごらんください…クリック地獄
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