新潟日報連載 41−47


41、魚肉ソーセージ(02年12月9日)

  スーパーの売り場で、たとえ冷遇を感じる少ない陳列でも、魚肉ソーセージを見つけると、「おお、まだ生きていたか」とうれしく思う。
  大変お世話になりました。昭和三十年代の十年間、つまり、わたしの十代は、これ抜きには語れません。と語調も改まり、ついつい丁寧になってしまうのです。
  深紅のセロハンの包装に、中身も、今と違ってかなり赤に近いピンク色。母が作るポテトサラダに入っていた。あるいは何度となく、外包装をビリッと破り、袋の留め金を歯でガリッとかじり取り、中身をむき出しガブッとやったことだった。高校山岳部の合宿では、それを刻んでキュウリやトマトとマヨネーズであえたサラダが常連だった。
  一九七一年の秋だった。わたしは広告宣伝などの企画会社に転職した。そして出社の日から担当したのが、何と魚肉ソーセージで有名な大手水産会社だった。当然わたしの仕事のなかに、いつもそれがあった。翌年にはその工場を取材した。下関の大きな工場である。生産ラインを見て回りながら、自分は相当食べたと思うが、その生産量と比べたら、食べたうちに入らないと思った。
  だが、すでに魚肉ソーセージにとっては苦難の歴史が始まっていた。添加物問題、加工食品に対する風当たりの強さ。日本独自のかまぼこの知恵を継承する食品なのに、怪しげなホンモノ志向の前ではニセモノ扱い。「ちょっとちょっと、さんざん食べ、貴重な蛋白源と言っていたのに何よ」と魚肉ソーセージは嘆きたかっただろう。
  そして世間は気まぐれ。低カロリーで健康によいと再評価されたとかで、細々と生き残ることになったらしい。おかげで、そのピリカラいためを楽しめる。これがうまい。なくなったら寂しい。
  スーパーの売り場で見つけたときは、「がんばれよ」と一声かけることにしている。

参考=当サイト「魚肉ソーセージ」


42、大判焼(02年12月16日)

  六日町駅前通りの食堂、「大阪屋のかあちゃん」が大判焼きを始めたのは、一九六〇年前後の冬だったと記憶している。入り口のすぐ横を、外から見えるようなガラス窓にして焼き始めた。
  町には、大判焼きの前に今川焼きがあった。それは、わたしが小さいころのことで、いっときは二軒できたほど人気だった。だが、わが家を基準に考えると、ひと冬に何度も買えるという状態ではなく、ゼイタクなものだった。いつしか姿を消した。
  大判焼きの時代、わたしは高校生になっていた。すでに高校生は、昼の弁当を持たずに、あるいは持っても別に、パンを買って食べるのが日常だった。買い食いはゼイタクという経済も考えも、昔話になりつつあった。
  それでも立ち食いはいけないことだった。大判焼きは買って家に持ち帰って食べるのが普通だった。
  山岳部の部活で下校は毎日五時半すぎになる。ある日、列車通学の同級生、柔道部のNと一緒になった。するとかれは時間があるから一緒に大判焼きを食べようといった。わたしは一瞬躊躇した。どう食べるのか、イメージがわかない。立ち食いには抵抗があった。かれはそれを金のことと勘ちがいしたのだろう「おごる」といった。
  とにかく入って、大阪屋のかあちゃんが焼いてる横に立って、おしゃべりしながら食べた。部活のあとのすきっ腹に、そのうまかったこと。それからもう病みつき。
  大判焼は当時は冬だけのことだったが、いまでは一年中ある。ときどき近くの大判焼屋の前を通って思い出すのは、暗い雪に埋まった街に大阪屋の窓からもれる灯りとかあちゃんの姿。それにしても、あのころは、大判焼きを食べてから目と鼻の先の家に帰ってすぐ、めしを三、四杯ぐらいペロリ食べていたのだが。

参考=当サイト「大阪屋」

43、田舎しるこ(03年1月6日)

  元日の朝は雑煮とあんこもちだった。そのあんこもちのあんに「つぶあん」と「こしあん」があって大問題になると知ったのは小さいころだ。その年の暮れから父と母は喧嘩をしたまま元日の朝を迎え、あんのことでもめ、それぞれ自分好みのあんを作った。
  幸か不幸か、わたしの父は当時の一家の主としては珍しく器用に、いろいろな料理ができた。そしてわたしは親子の義理から、その両方を食べる羽目になった。
  そのとき「つぶ」と「こし」を自覚した。しかし、そこに味のほかに深い意味があったと気づくのは、ずっと後のことである。とにかく、父は「つぶあん派」であり母は「こしあん派」だった。ついに両者は妥協することがなかった。
  上京して驚いた。雑煮やあんこもちが一年中食べられる店があるのだ。その「しるこ屋」に初めて入ってメニューを見てさらに驚いた。驚いたというより、わからない。
  「あんこもち」はなく「しるこ」と「田舎しるこ」がある。店員に聞いた。「しるこ」が「こし」で「田舎しるこ」が「つぶ」である。わたしは「つぶ」を「田舎しるこ」とよぶのを不思議に思った。ま、いまでも不思議なのだが。しるこ屋によってはわんまで違う。
  あるときひらめいた。父は六日町の農家の次男坊、都会の文化とは縁のない育ちだった。母は東京の大学を出た役人の家庭で、都会風の文化で育った。日常の礼儀作法から違った。そこに「つぶ」と「こし」の意地の張り合いの一因があったのは間違いない。
  わたしは両方を食べて育ったので、いいかげんでどうでもよいが好きな人間になった。しかし、しるこ屋には「あんこもち」の味はない。「しるこ」も「田舎しるこ」も、しょせんしるこ屋の味だ。


44、豚汁(03年1月20日)

  「黒い稲妻」の異名を取ったスキーアルペン競技史上初の三冠王トニー・ザイラーがいた。ゲレンデで流れる音楽は「ハートブレイク・ホテル」や「黒い花びら」
  そのころスキー場へは、必ずにぎり飯を持っていくものだった。そして、昼飯どきは、食堂で豚汁だけ注文して、にぎり飯をほおばった。豚汁は、丼にたっぷりあって、なかなか豪勢な気分になれた。
  だけど周りの都会から来たらしい華やかな客の多くは、カレーライスやカツ丼を食べていた。
  トニー・ザイラーはすぐ、「白銀は招くよ」「黒い稲妻」などの映画に出て主題歌も歌い、いまでいえばアイドル的人気スターになった。にきび顔の青少年たちは彼のファッションをまねて、黒いジャンパーを着た。
  にぎり飯を持ってスキーに行くなんて、なんとなく貧乏くさく格好悪い感じになった。食堂ではカレーライスを食べる、だけどカツ丼には手が届かない。そんなころがあった。
  豚汁は、短い間に、田舎の貧乏くさい生活のイメージになった。
  しかし上京したら、大衆食堂のメニューに豚汁があるではないか。田舎のスキー場の食堂の食べ物だとばかり思い込んでいたわたしは、驚いたり喜んだり。
  「とん汁定食」は、どんぶり飯に、同じ丼の豚汁、漬物少々が普通だった。これで安いうまい腹いっぱい。そして食べるとスキー場の食堂と、なぜかトニー・ザイラーを思い出した。東京の大衆食堂は、スキー場の食堂と似たような雰囲気だった。
  最近豚汁は「具だくさん汁」で注目された。関西には「とん汁煮込みうどん」なるものもある。田舎も都会も超え全日本的故郷の味なのだ。


45、酒の因縁(03年1月27日)

  人によって故郷はひとつとはかぎらない。わたしにも「第二の故郷」といえるところがあって、埼玉県の西部に位置する小鹿野町である。正確には、町の中心部からバスで数十分の藤倉だ。
  そこへの途中、吉田町上吉田地区に、一軒の小さな造り酒屋がある。狭い山間に一筋の川が流れるほとり、見るからに古い歴史をきざんだ建物に大きい暖簾(のれん)は「慶長」とある。その前をバスで何度も通りながら、こんな山奥に造り酒屋とは、と不思議に思っていた。
  五年ほど前、友人たちとその第二の故郷へ行ったとき、「酒マニア」ともいうべき酒好きの編集者が、慶長は知る人ぞ知るうまい酒だというので初めて飲んだ。それがわたしと慶長の出会いである。
  慶長のメーカー名は和久井酒造。昨年の夏ごろインターネットで名前をみつけアクセスした。すると「酒蔵の歴史」に「万延元年(一八六〇年)越後之国中頸城郡下黒川村(現在の新潟県中頸城郡柿崎町)出身の初代伊之吉が創醸。今からちょうど一四〇年前の事である。『慶(よろこび)び長く』と願いを込めて命銘された『慶長』の銘柄は創業以来今日にうけつがれています」とあるではないか。
  なんだかさらに親近感がわき、また埼玉と群馬の境の山奥で、なぜ越後の人が酒造りを始めたのか気になって電話をした。残念ながら昔の詳しいことはわからないが、埼玉県の酒造メーカーの創業者は越後と近江に二分されると聞いた。
  同じ埼玉の酒でも、「慶長」のようにわたしの口にあうものは、越後の系譜なのだろうかと思うが、時代も嗜好(しこう)も酒造りも変わっているから真相のほどはわからない。
  ともあれ、第二の故郷で第一の故郷と因縁の酒を飲む。これはまさに、しみじみ故郷である。

写真説明=初代が越後人の慶長の暖簾は五代目。(埼玉県吉田町)



46、棒だら(03年2月3日)

  日本は狭いとはいえ地理的には結構複雑で、ずいぶん食べ物や食べ方がちがう。東京で新潟県人と会っても、とくに南魚のへんの出身者と、海辺のひとではちがうなあと思ったことは少なくない。東京でも山の手と東京湾に面している下町では魚食の習慣はかなりちがう。だからわたしの故郷の思い出に生魚は登場しない。
  かと思えば、思わぬところで、似たようなものに出会ったりもする。
  昨年暮、京都で「いも棒」を食べた。おばんざい料理では有名という「黒川」でのことである。「おばんざい」とは「おかず」のことだから特別にあらたまったものではない。だけど当然、料理店としての洗練があるし、黒川は有名店だけのことはある味だった。
  料理法は省略するが、棒だらとえび芋や小芋の煮物だと思ってもらえばよい。だから「いも棒」。とにかく、タラの干物である棒ダラが欠かせない材料である。
  それを食べながら、黒川へ案内してくれた京都の方と、「棒ダラなんて懐かしいですねえ、わたしの故郷は山の中だから、冬には棒ダラを煮て食べました」「昔は海が遠いとこういうものしかなかったから」などと、まるで同郷の人間のように話し合った。味付けはまったくちがうのだが、野菜と魚の干物が主な食材だったということでは似ている。
  故郷を出てから棒ダラを食べたのは今回で三回目だと思うが、いずれも京都のいも棒で、ほかには記憶はない。京都ではおせちには欠かせない伝統料理、郷土料理であり、観光名物にまでなったから、いつでも料理店で食べられる。しかし家庭では、あまり作られなくなったようだ。京都人にとっても、かつての故郷を懐かしむ食べ物になっているらしい。
  荒縄で縛って台所につるされていた棒ダラは、それで頭でも叩かれたらコブができそうなほど硬かった。


47、コメとミソ(03年2月10日、最終回)

  この連載も今回で最後。いろいろ望郷の食をあげつらねてきたが、コメとミソについては、ほとんど触れてない。あまりにも日常的過ぎて、これでいちいち望郷をやっているわけにはいかないという感じもあるのだが、やはりこれは、外すことはできない。
  最近また「あなたは麦飯を食べずに済んだでしょう、よかったねえ」といわれた。上京してから、時々そういう目に合っている。まったく食べなかったわけではないが、白飯つまりコメのめしを渇望しながら麦飯を食べていた生活とはちがう。
  麦飯は戦後の食糧難の特殊事情と思っていたが、そうではなくて、昭和三十年代に初めて白飯が日常食になった地域が少なくない。ムギやソバその他の雑穀も「主食」だった。ここ埼玉にも「朝まんじゅうに昼うどん」なる言葉が残っている。まんじゅうは「お菓子化」「おやつ化」したが、群馬や長野で「おやき」と呼ぶものと同類で、それは食事になった。
  群馬も埼玉も長いあいだ米作に適さない地域が多く、一大小麦産地を形成していた。長野はソバで知られる。岩手など似たような地域は意外に多い。そして戦後の給食はパンだったから、白飯の常食化とパン食の常食化が平行している例もめずらしくないのだ。お正月に白飯を食べる故郷を思い出す人がいることも知った。
  いまやスーパーの店頭にコメが山とつまれているのを尻目に、パンやうどんやラーメンが買われる。それは、コメはいつでも食べられるという安堵(あんど)の結果でもあるだろう。安堵するところ、つまり故郷であろう。そのようにコメやミソは故郷であるはずだと思う。
  だが輸入原料に頼るミソを思うとコメも安心ではない。故郷は簡単に捨てられるが、育てるのは難しい。そしていつでもある安堵と有頂天は育てることを忘れさせる。コメとミソの食事をしながら、そのように、しみじみ故郷を思う。


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