10年前の
きくや食堂

「めし」の文字がよかった



豊島区上池袋2-14

(05年8月3日掲載)

『大衆食堂の研究』1995年から10年、というわけで、古い埋もれた写真を掲載しよう。写真は、93年12月7日の撮影。『大衆食堂の研究』の「食堂あいうえおかきくけこ」には、こう書いてある。

『きくや』――北西ジャンク地帯、豊島区池袋。JR山手線池袋駅東口前の明治通りを北に向かって十分くらい歩く。「あゆ焼」とか妙な名前のお菓子をつくる店がある。そのへんを左に曲がった細い通りにわびしくたつ。この通りは妙にジャンクである。入口上の日除け雨除けテントには、汚れるたびに何度も白ペンキでなぞったらしい大きい「めし」の文字。貴重だ。いま「めし」をかかげるところはすくない。つづけてほしい。おじさんが黙々とめし道に励んでいる。定食セットで五〇〇円から五五〇円でくえる。「めし」をつかっているので、いかがわし度2のところを3にしたい。
すでにご存知と思うし、当サイトをごらんになるときはキホンだが、「いかがわしい」とか「いかがわし度」とかは、おれの褒め言葉である。

写真と一緒に出てきたメモによると、ごはん、みそ汁、漬物におかず2品を選んで500円。3品まで、550円。あと一品追加するごとに100円プラス。記憶では、入口から奥に細長い古いしみだらけの木のカウンターがあって、その上に大皿に盛ったおかずがあり、そこからテキトウに選ぶのだったと思う。

1980年後半から91年までの数年間、池袋駅東口から明治通りを北へ数分、豊島区役所の先、大きなロータリーに出る手前左側にあった安田生命ビルに、仕事場の一つがあった。

そこからさらに、ロータリーを渡って明治通りを北へむかうと、左側に「鮎の天ぷら最中」で有名な「梅花亭」がある。その角を入った横丁商店街に「きくや」はあった。あたりは住宅街で、周辺に住んでいる人たちしか通らないような、池袋の周縁部はずれである。

この写真、右側手前が喫茶店「フェニックス」その隣「ドレスメーカー」の看板の仕立屋「細谷服装店」は、かつての「モダン」を感じさせる文字づかい。路地中央の人影のすぐ先、小さな交差点の左側に「きくや」の看板が見える。その先の大きな通りは、明治通り。右へ曲ると、池袋駅方面。

なぜこんなところにこんな横丁商店街が、と思うようなところだ。むかしは都電やバスの停留所近くの路地には、活気のある小さな商店街があった。その名残だろうか。こういう横丁の風景が好きで、このへんもよく散歩したが、「きくや」には入ったことがなかった。いつも飲み食いするところは、ここまで行かないうちにあった。

ロータリーからこの一角に来る前に、直線的に北へむかう明治通りは、池袋駅を出て大塚巣鴨へむかって東へ大きくカーブする山の手線と交差する。立体交差になっているのだが、その線路際に小さなボロな建物の飲食店がならぶ路地があった。サンシャインの近くにある人生横丁のような雰囲気のところだが規模は小さい。そこでよく飲み食いしていたのだ。

その一角は、どうやら戦後のドサクサにまぎれて現在のJRの用地に住み着いたものらしく、おれが池袋にあった仕事場を撤収する91年ごろには、進行していたJR線の拡幅工事のために次々閉店になった。

いまフト思ったが、駅から少し離れたビルで仕事する人たちは、昼飯どきには、駅方面の繁華なほうへ向かう人たちと、反対へ向かう人たちとに別れるようだ。そんな気がする。なかなかオモシロイなあ。

とにかく、それで、93年には大衆食堂の本を書くことが決まって、それで行ってみたのだろう。そして『大衆食堂の研究』が発刊なった95年か翌年には、「きくや」は建物はこのままで、イマ風のカフェバーのような店にかわっていた。


ザ大衆食ヨッ大衆食堂大衆食的