特集・居酒屋食堂考 その1
いづみや 第2回
(03年11月24日掲載)
ご注意=なかの写真はすべて「いづみや第2支店」。第1回の全景写真の左側の建物1階です。
「いづみや」または「泉や」は、おれの知るかぎり、この大宮のほかに、いまは同じさいたま市になった、JR京浜東北線与野駅西口の駅前通りと、浦和駅西口前にあった。ほかに都内、JR山手線日暮里駅東口前にもある。
このうち、与野の店は、このサイトに掲載してあるが再開発のため消え、浦和の店も今年の7月ごろに閉店した。浦和の店がなくなったのは、歩いて行ける距離に住んでいるおれとしては、非常に残念無念の、もう一時は狂いそうなほど、残念無念だった。なにしろ、誰かと会うときは、夜の場合はともかく、昼から夕方なら、ほとんどここを利用していたのだ。昼から、アジフライやポテトサラダをつまみにグビグビッと生ビールを飲んで、ことによると仕事の打合せ、ことによると単なるバカ話して、腹がすいたらカツ丼やカツカレーくって、「安い〜っ」と叫びたいぐらい安いなんて、ここしかないのである。
それが、ああ、その日は、2003年7月27日だった。おれとアヤシゲさんと、まったくいづみやには似つかわしくないが本人は、いづみやのようなコキタナイおやじな店が好きな若い編集カワイイ女、昼過ぎに浦和で落ち合って、ここしかないよねと店の前に立った。つまり遠くからは普段どおりに見えたから前まで行った。ら、ガーーーーン、見えた暖簾はガラス戸のなかで、のぞくとコンクリートの床だけになっているではないか。そのときの落胆。
以前、与野の「泉や」のオヤジに聞いただけだが、チェーン店ということではなく、同じ酒問屋の社員か親戚かなにかの関係、というアイマイな関係であって、とにかく、もとが酒問屋だから、酒類、とくにサッポロビールが安いのであった。それに、なんとなく微妙な幅のテーブルのつくりなど似ているし、メニューの構成も、ほぼ似ていて、大衆食堂メニュー。
ま、そういうことはおいといて、「元祖居酒屋」の文字は、大宮と浦和の店に見られたし、「酒亭食堂」という文字は、大宮と与野の店に見られた。大宮の看板には、両方の文字が見られる。ついでに、大宮の第二支店にある氷式木製冷蔵庫は、与野の店でも現役で活躍していた。
ようするに「居酒屋食堂」なのである。
で、これはじつに大衆食堂的に、意義深いことであると考えるのだ。というのも、江戸時代の「縄のれん」つまり布の暖簾ではなくて、もっと安っぽい縄をぶらさげただけの「縄のれん」といえば、居酒屋の草分的存在であり、しかもめしをくわせる居酒屋だった。
居酒屋は、酒屋に居て飲む、「居酒」の当初から、たちまちめしもくわせるところ「酒めし屋」になったのだ。まあ江戸というと独身男が多く、ほとんど労働者だったのであり、かれらが一日の労働の疲れを癒し、生きている充足を、晩酌とめしに求めたところだったのである。
「癒し」とは、そういう生活のなかにあるもので、田舎だの自然だのチベットだの相田みつをだのと、そういうことでないと癒されないなんてオカシイ。アンタ、癒されること自体に欲望しているでしょう。過剰な情報のなかで、日々労働し日々一杯の酒と一杯のめしに充足する自分を見失っただけでしょう。
コキタナイが不潔ではない
だから癒される
いづみや
正面奥に現役の氷式木製冷蔵庫が見える「癒されたい」なら、こういう空間で飲みかつ食べ充足を知ることが必要だろう。
コキタナイが不潔ではない。そこが大事なのだ。従業員だって、ジジババばかりだ。だから、この清潔が維持され、そして、このコキタナイし猥雑、であるがゆえに、あたたかく癒される空間が維持されるのである。ここには、ガキのようなアルバイトでもできる、実務的に洗練された、コジャレたコギレイな空間もサービスもない。それだけに、深く深く癒されるのである。「癒し」という言葉は、こういう空間で使う言葉なのである。
このコキタナイ空間は、江戸時代の居酒屋が、それは酒樽の上に腰かけたり、あるいは酒樽に板をわたして腰かけたりで始まったようだが、その時代の居酒屋の空間、そこに集った男たちの匂いや呼吸まで、大事に伝えているようである。
はて、話がどうなったかわからんが、今日は、ここまで。大急ぎで書いたから、あとで書き直しになるかもなあ。
またまた続く。>>>次へ
(03年11月24日)
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