あなたも「評論家」 『キッチン レストランの文化誌』で考える (05年7月8日記) 以前、北海道新聞2000年9月3日の書評のページに、ゲイリー・アラン・ファイン著 の『キッチン レストランの文化誌』(原著1996年、藤澤美枝子・小池久恵・谷村眞理子訳、法政大学出版局2000年)について書いた。 いちおう書いて掲載になったのだが、どうも読み方が浅かったような気がしてならない。気になるので、また読み直してみた。やはり、どうも浅かったようだ。 というより、この本は、「食文化」つまり「食べる」こと、とくに外食店や、自分の台所のシゴトに関する見方や知識を深めるために、基礎的なテキストになりうるという発見があった。 それで、まあ、「あなたも評論家」というセンで、この本を解読しながら、イロイロやってみようかと思ったのだ。ま、自分の食生活や食事や料理を評論したり、他人のそれを評論したり、もちろん飲食店の評論、それから、おれのように偉そうなことをいっているライターとかエッセイストなどの外食本をはじめとする食文化本の評論とか、アレコレやってみるとおもしろいんじゃないだろうか。 「あなたも評論家」ということでは、以前当サイトに、そういうぺージをつくり、いまでもそのページは残してある。これはいずれ再開したいと思っているが、当面この方法はちょいと難しすぎる。やはりテキストを使ったほうがやりやすい。そして、いまのところ、これは絶好のテキストだ。 ご参考=当サイト「あなたも評論家」 本書にはふんだんにアフォリズムが採用されていて、それがおもしろさの一つなのだが。たとえば「序」は、このようなアフォリズムで始まる。 エロティシズムは情熱の最も激しい形だが、ガストロノミーは情熱の最も拡大された形である。……このふたつとも身体と物質の配置と結合から成り立っているが、愛は配置の数が限られ、その喜びは一瞬であることが多いのに対し、ガストロソフィー(美食哲学)では、配置の数は無限であり、その喜びは集中に向かうのではなく、増殖し、味覚と香りによって拡大していく。「ガストロノミー」という言葉は、歴史的に、有閑階級や富裕階級の言葉として用いられ、「食道楽」「美食学」というぐらいの意味で使われてきたらしい。しかし、貧乏大衆には貧乏大衆のエロティシズムがあるように貧乏大衆には貧乏大衆のガストロノミーがあってよいのだ。それは、馬鹿としか言いようがないように見えるブームの、ラーメングルメの「情熱」などに顕著であり納得できるのではないだろうか。 ただ、ラーメングルメは、いかにも無知性的で、このようなアフォリズムにあるような知性をかんじさせないのだが、かといってほかの「B級グルメ」つまり大衆的飲食の分野も同様で、美味学や美学の片鱗もかんじさせないものが少なくない。カレーグルメはインドを背景にして、なにやら哲学的なイメージがあって知的であるようだが、なに上っ面だけで、単なるインド崇拝インド原理主義でたいしたことはない。それに、なにせ、日本には、このようなことをおっしゃる、気の利いた粋な高級官僚なんかいませんからなあ。 日本でも「食」と「性」は、よく一緒に、あるいは比較されて話題になり、梅棹忠夫さんなどは「食事学入門」で食事学と性事学を提唱している。しかし、たいがいは好事家的なスケベ丸出しの下世話な話の低レベルだ。ある故人の著名な懐石料理の大家などは、その著書で、料理を女体にたとえるような話をしているが、エロティシズムもガストロノミーもあったものじゃない。自分の本が売れてるからといって調子にのって書いて恥を残したくないものだ。 ご参考=当サイト梅棹忠夫「食事学入門」 それはともかく、著者ゲイリー・アランは、アメリカの心理学者にして社会学者である。日本では『うわさの心理学』(共著、岩波書店1982年)で知られた。著者のことは知らなくても、『うわさの心理学』はちょいと話題になったから、記憶にあるひともいるだろう。 本書は、レストランのキッチンつまり厨房を一つの社会にみたてたサーベイで、「組織社会学のいくつかの特色を探求し、今後の研究になんらかの基本を提供するものである」 が、しかーし、このサーベイの方法が普通じゃない。つまり著者は、もともと家庭でコックなみの料理をする男なのだが、さらにレストランの職業訓練所(専門学校)に通い、コックの腕前とレストランを経営できるぐらいの知識を身につけたうえで、四ヵ所のレストランのキッチンに「勤め」タマネギの皮をむいたりしながら、サーベイを敢行した。ほんと、すごい能力と馬力、半端じゃない。ちなみに1950年生まれ、タフだなあ。日本の大学教授も、殿様観光旅行のような「海外調査」ばかりやってないで、国内でこういうふうにやってほしいものだ。 であるから著者は、こういう、「客、コック、経営者、社会学者の間で交わされた会話の一片として読んでいただきたいのです」 とはいえ、その会話はバクゼンとした思いつきのものではない。編集され構成された内容は、家庭のキッチンのシゴトを考えるうえでも、なかなか興味深く示唆にとんでいる。ようするに、レストランを対象にしたサーベイだが、そのワクをこえ一般の台所から食卓を、全体的かつ部分的にみることができるのだなあ。 「序論」の冒頭には、例によって、このようなアフォリズムがある。まったく、こういうアフォリズムをたどるだけで本書は楽しい。これがなかったら先へ進むのがシンドイ訳なのだ。 子供の頃に食べた美味なるものへの愛情こそ愛国主義と言わずして何であろう。そして、「序論」の書き出しは、こうだ。 食物はわたしたちの人間性をあらわにする。 おお、そうかそうか。おれが付け加えれば、「食べ物の話しは、わたしたちの人間性をあらわにする」ってことでもあるのだな。では、まずは、目次を見ておこう。 序論 レストランと料理の発展 経済学とレストランの仕事 美的生産 第一章 厨房の生活 レストランの調理の日常的基盤 対処する個人の組織 方法を簡単にする 汚れ仕事 厨房における分業 コックになる 求人と社会化 第二章 コックの時間 外的環境とレストランの時間 昼の生活 ラッシュ 仕事日の構築 料理の時間的秩序 組織的時間 第三章 厨房――場と空間 環境と設備 危険がいっぱいの世界 厨房スタッフのネットワーク コックの地位構成 パントリー係の位置 皿洗い 生きるために仕える 結論 第四章 料理の共同体 近接する組織としてのレストラン 個人間関係としてのレストラン文化 冗談の社会 厨房の逸脱行為 共同社会の分裂 厨房のネットワーク 結論 第五章 経済とコック 経済的関係 価格と顧客 コックと顧客 メディアとの関係 レストランの内部構造 結論 第六章 美的制約 美学の実践 制約と交渉 厨房の背後に 生産の文化 第七章 厨房におけるディスコースの美学 食材についての会話 風味の「問題」 共同調理 美的理論について 厨房会話の限界 厨房の哲学者 第八章 組織と、厨房生活の美学 組織 相互作用 時間 情動 共同体 経済 美学 結論 補遺 厨房の民族誌学 仕事の観察 民族誌学的な感覚 コックとはなにか レストランの現場とデータの源泉 なにせ、著者は学者だし、訳がヘタなので、どうもカタイのだが、ようするに、外食店の厨房だろうと家庭の台所だろうと、規模は違うがキッチンとしての原理は同じものが働いている。 ある料理評論家は、たぶん「料理評論家」という肩書をつかってはいないが、そのような本を何冊も書き、あるインタビューにこたえて、自分は単なる評論家ではなく、飲食店で食べた料理を自分でつくれる腕を持っていることを強調していた。たしかに、彼は、なんでもつくれるとは限らないだろうが、かなりのものはつくれるだろう、自分がコックをやって飲食店を成功させることもできるだろうと思われるひとだ。 しかし、元来、評論というのは、たとえば、小説は書けなくても小説の評論をできるように、料理はつくれなくても、料理の評論はできるし、つくる側のことなどあまり知らない方がよいということもある。 がしかし、小説は書けなくても小説を読んでいれば、小説のシクミぐらいのことはわかる。それぐらいのことはわかって評論しているだろう。ということに比べると、食事や料理の評論は、あまりにもお粗末な知識でしかない場合がおおい。また、狭いところに「特化」し、針小棒大ハッタリおおげさ、マニアックだが全体像のない話がおおい。なぜそうなるかというと、そのうち詳しく検討したいと思うが、ほんらい書けるひと書くべきひとは「本業」で忙しくて書けない状況がある。そして、たいして知識の蓄積のない実力のないライター稼業のひとが、チャンスだけでのさばることになる。それでも売れて出版社やライター稼業が成り立つということは、読者を含めた全体のボリュームゾーンが、お粗末のレベルだということなのかも知れない。 だから、とにかく、とくに大衆的な飲食店や料理に関しては、家庭であるていど料理し食べるときぐらいの知識や思考力はあったほうがよいと思う。一方、すでに長く家庭での料理を重ねてきていると、習慣としての食事や料理に陥って、理論的な考察がされてないこともおおい。それでは、好き嫌いはいえても、評論にならない。 それからイチバン多いのは、評論めいたことをいいながら、「これは主観的なものだ」というような言い訳をすることだ。「主観的」なのはアタリマエなのである。その主観の基準なり考え方を提示しなくては、何にも語っていないに同じだろう。 というわけで、この目次を見ると、一つの料理ができるまでには、キッチンでこれだけのことがあるのだなあと眺められる。飲食つまりキッチンのシゴトの大よそを理解するために好都合だ。そういう意味で、これは便利なのだ。これを見て、全部、すぐ内容の想像がつくひとは、もう十分評論力のあるひとだから、次回からここを見る必要はありません。 ということで、今日はここまで。 ザ大衆食│あなたも評論家 |