まぐれ研究

梅棹忠夫と「食事学入門」 2001年9月20日

 「食事学」という言葉が、いつから存在しているかは知らないが、1978年に、文化人類学者の梅棹忠夫が「食事学入門」と題して講義を行ったことはわかっている。
 朝日新聞大阪本社の「朝日ゼミナール」つまり「朝日カルチャーセンター」の前身で行い、そしてそれは、1980年9月に朝日新聞社から発行された『食事の文化――世界の民族』に収録されている。と、1985年4月にドメス出版から発行された梅棹忠夫著の『情報の家政学』にある。
 しかし、「食事学」という学問も学会も存在しない。
 梅棹忠夫は、その講座で、こう述べている。
わたしはきょう、食事の文化についての概論あるいは入門の講義をしなくてはならないわけです。いわば、食の文化人類学、あるいは民族学的にみた食事論ということになろうかとおもいます。たいへんむつかしい仕事で、じつは、わたしもこまっております。文化人類学の一部門として、食事人類学というようなものの体系がすでにできあがっているわけではありませんので、ここであらためて、手さぐりでやってみなければならないわけです。

 が、それ以後、食事学は手さぐり状態のままである。そしてまあ、そういうことには関心のない、つまりサルでもやれるグルメ談義と栄養談義に、みごとなコウルサイ花が咲いたのだ。
 ま、とにかく、梅棹忠夫が「食事学」をどう考えたかをみておこう。
そのまえに、かの有名な権威ある『広辞苑』では、「食事」についてどう述べているかを、知っておいても無駄ではない。こうである。

【食事】生存に必要な栄養分をとるために、毎日の習慣として物を食べること。また、その食物。
 これだけみれば、なーるほど、どうりで毎日「栄養、栄養」とうるさいわけだと納得できる。
 だがしかし、それだけでは、なぜ「いただきます」「ごちそうさま」なのだ、ということは理解できない。そういうご挨拶のようなものには、なんの栄養分もないから「食事」には含まれないのだろうな。とも判断できる、が、そう思っているひとは、現実にはいない。ふつうは、「いただきます」は食事のうちだろう。
 さて、梅棹忠夫は、まず「食事学の基礎」で「食事を精神の次元であつかう」のが食事学だと言った。

外界から食物を摂取して、みずからの生命の維持に役立てる。これは、人間だけでなく、ひろく動物界全般にみられる現象であります。(略)

外界からの食物摂取ということは、とりもなおさず、栄養の問題です。(略)いわゆる新陳代謝をおこなってゆく。それが、動物における「たべる」ということの意味でしょう。その点では、人間もまた、おなじです。食物を摂取して新陳代謝をおこなう存在であります。
人間は、いきてゆくためには、外界から食物を摂取して、新陳代謝をおこなわなければならない。それは事実です。そのことはしかし、人間にかぎったことではなく、すべての動物に共通の現象であります。それはいわば、動物学的事実であり、もうすこし限定していえば、動物生理学における現象にすぎないのです。ことさらそれを人間について研究してみたところで、それはいわば、人間における動物学、生理学であって、そのまま文化人類学、民族学の問題となるわけではありません。食事の問題を、動物学、生理学とおなじレベルでかんがえていたのでは、文化人類学の一分野としての食事学にはならないです。

(略)問題が文化の観点からあつかわれなければならないのです。文化というのは、精神的現象であります。(略)食事を精神の次元であつかうこと、ここにおいてこそ、食事学が成立する可能性があるのだと、わたしはかんがえています。
 ちょっと引用が長くなったが、こうやってみると広辞苑の解説は、きわめて文化性や精神性の欠如した「食事」であることがわかるはずだし、人間の食事というのは、栄養だけじゃないということもわかるだろう。
 また、見方によっては非常に貧しい簡単な料理を食べていると、それを「エサ」と罵る「食文化系」の人ひとたちがいるが、それは食事を正しくみているとはいえない。ということも理解できる。

食事は、生理現象であるとともに、それとならんで、精神的現象としての半面をもっていることは否定できないのであります。(略)われわれが問題にしようとしている食事という現象が、すぐれて精神的な現象であることは、すでにご了解いただけたかとおもいます。それは、胃袋の問題であるよりも、むしろ大脳の問題なのです。また、それは本能の問題であるよりも、むしろ文化の問題なのです。
 ここで、われわれは、こうるさい「グルメ」たちを思い起こさなくてはならない。あのひとたちの「何軒くい倒した」「勝負した」という「舌自慢」は、ある漫画の影響にせよ、もう見ただけで文化度も低い知性のかけらもない行為だというのはわかる。まさに彼らは食事を逸脱した動物的存在にすぎないのであって、となると、「グルメ」というのは「文化的現象」ではなく「動物的現象」なのかと思いたくなりますね。

 しかし、それは、つまり、なぜあのような舌の生理的感覚に偏在した「動物的グルメ」がはやっているのかということは、きわめて文化的な問題ではあるのだ。

 本日の研究は、ここまで。
 おれって、グルメが嫌いなのだろうか?

食文化本のドッ研究