食通以前

1977年11月 講談社

(04年5月14日blog版を04年9月27日移動)

■中間整理
1974年の『庖丁文化論』(講談社)から1982年の『「生活のなかの料理」学』(百人社・新宿書房)までのあいだに、江原恵さんは、1975年『まな板文化論』(河出書房新社)、1977年『食通以前』(講談社)を刊行している。この間に「生活料理学」の構想(あるいは仮説)が煮詰まってきたといえるし、これらを読むと、どう「生活料理学」の構想が生まれたかわかる。江原生活料理研究所の開設は1980年。

『庖丁文化論』のもくじ

『まな板文化論』のもくじ

『「生活のなかの料理」学』もくじ

■『食通以前』のもくじ
T
味の真髄をもとめて
イシガレイの思い出
U
名人列伝
料理人気質
道具の味
日本料理とは何か
V
「マグロ」の味
調理師学校の怪
料理の洋風化を考える
味の美学
料理は芸術か
職人的味覚論
「食通」と台所のあいだ
北海道で見たこと味わったこと

■気がついたこと
1、『食通以前』の最後、奥付のあとのイチバン最後には、『庖丁文化論』の広告がある。そこには、「日本料理は目でくわせる。何よりも美観を尊重する割主烹従の日本料理を、通人のペダンティズムから解放し、味覚文化を料亭料理から家庭料理へとりもどす。本書は、板前としての実体験をもつ著者が、毒された日本料理の伝統に痛烈な批判を投じ、《うまいものをくう》という料理の原点から、真の庖丁文化の復権を訴え、未来を考える異色の書。」と書かれているのだなあ。これはちょっと、「真の庖丁文化の復権を訴え」というところは、かなり違うように思う。むしろ、日本料理の伝統は、皮をむいいていくと割主烹従の庖丁文化しかない、そんなものを権威にしていたから日本料理は敗北したのだ、というのが『庖丁文化論』のハズだが。この広告文について、江原さんは、どう考えていたのだろうか。どうも講談社という大出版社の編集者は、「板前としての実体験をもつ著者」に力点があって、江原さんの主張を理解していたかどうかアヤシイ。

2、「家庭料理」という言葉では、給食や社員食堂や大衆食堂の料理を、うまく包括しえない。ということも、「生活料理」という言葉が必要になった理由の一つだろう。1970年代は、生活料理の大半を担ってきた、「家庭料理」が没落する時代だった。

3、内容とは関係ないが、『庖丁文化論』も『食通以前』も装丁は勝井三雄さん。『「生活のなかの料理」学』の装丁は杉浦康平さん。


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