貧乏食通研究所│食文化本のドッ研究 | ||
ガツンな快食本(06年4月10日版)
東陽さんの漫画を全部は見てはいないが、「下々」の飲食が、よく登場する。しかも、かなり具体的であり、どれもこれも昭和30年代ごろの、おそらく東陽さんの出身地である東京は板橋区から下町あたりの「職人の街」らしき姿が多いようだ。そして、おれがこれまで見た東陽さんの漫画の中で、もっともたくさんの飲食が見られるのが、本書ではないかと思う。ま、されど人生、食うことである。 「表紙」写真、左の男が持っている一升瓶は「DAIA GIKU」とラベルにあるから、「ダイア菊」のことだろう。この酒が登場するあたり、いかにも東陽さんらしい。右の男が口にしているのは、スルメ。スルメは、いまでは高級品だ。 「表紙扉」つぎ、表紙を開けて、もくじ・本文に入る前の表紙扉。「されどワタシの人生」の描き文字タイトルと、一家の主が腹巻をした職人のオヤジ風、父母と小学高学年か中学ぐらいの息子と娘の4人家族が、ちゃぶ台を囲んで食事中の絵だ。 6畳ぐらいの畳の部屋。家族が食事するそばには、祖父と思われる老人が病床にある。頭に水枕、そばに尿瓶。その一枚の絵に盛り込まれているのは、いつの時代もかわらない、食べて成長し生きて働き、老い病いを得て死んでいくだろう、人間の姿だ。けっして、家族の「愛」や「絆」にあふれた、清らかで温かな「美しい光景」ではない。 ちゃぶ台の真ん中に大きな鉢があって、どうやらイモの煮っころがしらしきものが山盛り。おかずは、それだけで、あとは各自がめしと味噌汁。東陽さんが描く食卓は、たいがい、めしとみそ汁とお新香に、おかずは一品だけというのが多い。とくに多いおかずは、納豆のような気がする。昭和30年代ごろまでの実体だろう。あのころの食生活がよかった、なんていうのは、「飽食」で腐った脳の幻想ではないか。 ただ、イマが、それほどよいわけではない。それに、人間の営みの根源は、食うこと、おセックスと寝ることで、たいして変わっているわけじゃない。それが満たされれば、よいのである。東陽漫画は、そのことを生々しく描いている。脳天気な「懐古趣味」や「下層趣味」を許さない生々しさがある。とにかく、食べ、おセックスし、ゴロリ寝る、のだ。そういう素朴な野性こそ、東陽漫画にあって、イマが失ったものだろう。
ちゃぶ台のむこう側には、お盆に急須と夫婦茶碗がのっている。そのそばに、部屋の片隅には、貧しそうな家なのにテレビがあって、レスリングの場面。それを、外から窓のガラスに顔を押し付けるように見る、たくさんの人たち。テレビが出回りだした頃にちがいない。すると、これは、おれが12歳ごろ1955年ごろの光景だろうか。ともあれ、時代と共に変わるのは、そういう生活の背景や舞台装置だけなのだ。されど、そこにワタシの人生がある。そして、食べるのである。 (続きは、後日ね) |