庖丁文化論』の読み方


1、篠田統さんの奇怪

(03年1月28日記)

「料理」だの「食文化」だのといっているが、他の学術分野のように専門が確立し専門の研究者がいるわけではない。みんなシロウトであり、料理史にしろ食文化史にしろ、「食文化研究家」といった学者のような肩書のひとにしても、その内容は学会で問われることないテキトウなおしゃべりの世界である。

大学の先生の肩書があるひとも、それぞれ、たとえば「文化人類学」「民俗学」などの専門があって、その学会での発表なら物笑いになる放言のようなことを、食のことになれば真面目な顔して平気で口にする。「栄養士」の先生だって、料理や食に近いところにいるのだが、専門は栄養学や生理学である。

その状況は、それなりの面白さやよさがあると思う。「オーソリティ」なんていう偉そうなやつがのさばることなく、いつも騒乱状態百家争鳴談論風発玉石混淆。だから読者の見識も問われる。

Aさんに真実があるわけでもなくBさんに真実があるわけでもなく、しかし、それぞれ欠陥がありそうな主張を集めてみていくとAさんの主張とBさんの主張が照らすあたりに、真実がありそうだということが少なくない。しかし、それを発見するのは読者の力であるというぐあい。

真実が個人や学会のような特定のグループに属さない。ひとりひとつの権威がそびえたち全体を照らすのではなく、それぞれがサーチライトやスポットライトのかんじで一隅を照らし、それがあつまって明るく見えるところがあるというアンバイである。だれだれさんのいうことだから、有名なひとのいうことだから正しい、なんて考えが通用しない世界だ。

これは、もしかすると「客観的真実」を探るには最もよいのかもしれないし、世の中そんなものではないかとも思う。ところが、そういうことがわかっていないで、なにか権威づけるようなことをしたり、いったりするひとが時々あらわれる。ああ、権力や権威の誇示あるいは憧憬か、それとも単なる金欲、あるいは遺恨か。

つい先日、古本屋で、『日本料理技術選集』のうちの「日本料理史考」と「食生活の構造」と「明治・大正・昭和 食生活世相史」の3巻を買った。前から欲しかったものだ。 料理本出版界の岩波書店といわれる柴田書店から、1982年に刊行された全50巻本のうちなのだが、おれのような貧乏人相手の本じゃないし、全巻まとめて買うのは無理だから、必要な欲しいものだけ古本屋で買うのだ。古本屋で一冊2500円ぐらいの値段がついているところもあれば1000円のところもあって、うまいぐあいに1000円で見つけて得した気分。

さてそれで、「日本料理史考」をひらくと、著者は中澤正さん。やはり柴田書店から1977年に刊行された著作の収録である。序があって、権威ある篠田統さんが書いている。篠田統さんは、序で述べる。

「食物史・料理史などと号する本はずいぶんたくさん出ているけれども、そのたいていは、食物を『食べる』側の学者や食通たちの筆になっており、『作る』立場から書かれた、しかも随筆的でなくまっとうな歴史として書かれた本はきわめて少ない。」

これは、まあ、正確な指摘といえるだろう。ただし、食物史や料理史は、著者が「食べる側」か「作る側」かなどは関係ない。ファッションや建築みてもわかるだろうが、そんなことを問題にするのは、特殊なテーマならともかく、とてもおかしい。であるから、篠田さんの書いていることは、最初の指摘は正しいのだが、どんどんおかしくなっていく。

続けて、こうだ。

「その珍しい中に江原恵君の『庖丁文化論』は出色だと言えはするが、同君の主観がいっぱいで、日本料理の将来を論じるには面白いが、一般の人々の参考になりにくい。」

短い文章のなかで、ずいぶんわけのわからないことである。「出色」だけど「主観がいっぱい」で「将来を論じるには面白いが」「一般の人々の参考になりにくい」、とはどういうことなのか、一般のひとにはわかりにくいではないか。

「一般の人々」とはだれをさすのか、おそらくこの場合は料理関係者あるいは料理愛好者以外ということになるだろう。だけど「庖丁文化論」は、一般のひとたちが読む、エッソ・スタンダード石油広報課が編集発行する、あの高田宏さんが長いあいだ編集長を務めた、雑誌「エナジー」が一般から公募した原稿から選ばれたものであり、エナジー叢書で刊行されたのち講談社から発行になったものなのだ。1974年のことである。専門書の柴田書店の本など買って読むようなひとたちじゃない、一般のひとが多くそれを手にした。そして評価を得た江原さんは、一介の料理人から「食文化研究家」になった。

「主観がいっぱい」というが、この文章では何をさすかわからず中傷の印象すらある。少なくとも江原恵さんは、自分の立場をあきらかにして書いているのであり、それは、まさにサブタイトルに「日本料理の伝統と未来」とあるとおり、日本料理の将来を考えてのことだから、「将来を論じるには面白い」でいいではないか。「一般の人々の参考になりにくい」などは、一般読者が判断することだし、評価されたものなのだ。

そういうことをいったのち篠田統さんは続ける。 この「日本料理史考」は、「立場が非常に客観的で、将来論などは読者にあずけている。一見非情だが、それだけ親切である」

これは、ま、そういう書き方もあるでしょ、あっていいでしょ、というていどだろう。歴史は未来を見通すために編むものだと思うが、それができないで将来のことにふれない著作はいくらでもある。

しかし、中沢さんの本文の書き出しは、いきなり「大昔の人が何をどのように食べていたかについては、たいしてわからない。また、今日の日本料理への影響もたいして問題にならない。まあ、料理以前といったところである」というぐあいなのだ。なるほどこれは客観的といえばいえるし、非情にして不親切であり、そもそも「たいしてわからない」といいながら「今日の日本料理への影響もたいして問題にならない」と断じるのは、歴史を述べる論理に欠けてはいないだろうか。ざっと読んだだけでも、そのように論理に緻密をかき、文体や文章の運びは論文というより随筆的である。

で、篠田統さんは、そういう内容をどう思ったのか、こう書く。「中沢君は現日本大学教授で元東京大学史料編纂所教授だった進士慶幹博士の薫陶をうけ、史料・資料の扱いは安心して見ていられる。その料理にしても、東で修行し大阪で仕上げ現在名古屋で庖丁をとっているので、東西に偏したところがない。日本料理史を綴るにはすこぶる適任だと思われる」

もう何をかいわんや。そんなことが、日本料理史を書く適任の条件になるのだろうか。篠田さんぐらいのひとなら、それぞれが書いている内容に関わって批評や推薦をすべきで、経歴をもって中沢さんは適任だが江原さんはそうではないというような印象をあたえそうなことを序で述べては、江原さんを貶めるだけでなく、この著作が俗物的な権威主義や実績主義のかたまりであることを示すことにもなりかねない。なぜこのようなことを書いたのか、じつに奇怪だ。

とにかく「庖丁文化論ショック」が、そうとう強かったのだろうと思われる。

そもそも、この本の原著は「庖丁文化論」の3年後の刊行だから、それをこえる独自の見解があっても、なんら不思議はない。しかしその内容において推薦するのではなく、このような権威づけと、論文的には根拠にならない料理人経験をもって、「庖丁文化論」と比較しなくてはならないところに、この著作の大きな負がある。

大学の先生に師事しようが、いくら修行しようが、だめなものはだめであり、そんな学生や徒弟はいくらでもいるだろう。論文は中身で判断されるべきだし、「一般のひと」はそうするだろう。そういう常識が日本料理界では通用しなかったのだろうかと思わざるをえない。もしそうであるなら、「庖丁文化論」は、いろいろ欠陥はあるが、日本料理界の権威主義を厳しく指弾するだけでなく方向性を示したことにおいて、ますます意義があることになる。

すでに両著から20数年たっているから、はたしてどちらがどうなのか、あるていど判断つくところもあるのだが、まずは篠田統さんの序におどろいた。
 
例によって、いつ続きを書くかわからないが、続く。


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