『食品商業』06年1月号〜10月号連載
食のこころ こころの食
(編集部からのお題)
第1回のテーマ 「食の豊かさ」ってなんですか。
「飽食」という言葉が叫ばれてから、既に長い年月がたちました。世界的に見れば、まだまだ目本は経済的には豊かで、膨大な食べ残しを発生させるぜいたくな国の一つではありましょう。しかし、長引く不況下、所得の二極化が進み、全く貯蓄のない世帯が2割を超えたという報道もあります。また、小売業の立場で、日本に暮らす人々の「日常生活の豊かさ」を牽引されてきた中内功氏がこの秋、お亡くなりになりました。
これを機会に「食の豊かさとは何なのか」「われわれの食は豊かになったのか」あるいは「食の貧しさとは何なのか」など、ご持論を頂戴したく存じます。
(本文)
ありふれたものをおいしく食べる
不断のフツウの積み重ね
「豊かさ」とは相対的で気分的なものだと思う。過去をふりかえり、あるいは隣人や外国とくらべて、あれこれ言えるにしても、かなリアイマイな印象である。そして、とにかく、「食の豊かさ」となると、簡単ではない。
クルマや情報機器、家具や衣服、絵画やCDなど有形のモノは、豊富にあることが、豊かさの実感に直結しやすい。それが自分の家や部屋にあるだけで容易に豊かな気分になったり、自分にとっては不要なものであっても、たくさんある様子を見て「日本は豊かになった」と思うこともできるだろう。
しかし、ひとまとめに「衣食住」というが、食は、かなりちがう。食は、「無形」なのだ。食は、モノである食品があって成り立つが、食べられてこそ食品であり、食べるということは、食品としてのカタチを無くすことだ。食品は、なんらかの加工や調理をし、またはしなくても、最後にロに入り、もとのカタチを失ってから、その良し悪しの判断は味覚にゆだねられ、さらには生命に必要なエネルギーや栄養といわれるものに変化する。そのときもっとも存在感や機能を発揮し有用でなくてはならない。つくる、売る、買う、料理する、などの行為は、すべてそのカタチが見えなくなったあとを目指しているはずだ。カタチが維持されることによって有用である衣や住とは、そこが大きくちがう。
豆腐の情けなさと
ヤキソバのシアワセと
自分が食べてマズイと思う感心しないものが、店頭に大量に陳列されていても、豊かな気分にはなれない。逆に、アアッ日本て、なんて貧しいんだろうと思う。
たとえば豆腐だが、大多数の人びとは、ありふれた安い豆腐を選んでいるだろう。店頭に大量の豆腐が重なって並ぶなんて、むかしは考えられなかった豊かさである。ところが、その豆腐は、むかしとはちがい、ほとんど大豆の味のしない白い塊である。このあいだ、湯豆腐をしているうちに、メーカーが凝固剤でもケチったのか、崩れて「液状」になった。そのときの情けなさといったらない。
また、たとえば街ではラーメングルメだのと騒いでも、カップラーメンやインスタントラーメンが大量に陳列されどんどん売れている。私は暗い気分になり、豊かさどころではない。
もっと始末が悪いのは、買うときにレジで不愉快な思いをしたり、あるいは料理で失敗したりだ。そのあとの食事の気分はいらだたしく、豊かさとはほど遠いものになる。
ところがである。豊富な割には、経済的事情から手にできる食品は限られているにせよ、豊かさをかんじることができる。さきの話と逆になるが、今日はなんだか、あの湯通しすればよいだけのアノ身体によくなさそうなインスタントヤキソバをどうしても食べたい!と思い、1個100円ぐらいのそれを買ってイソイソとつくり、食べたときのシアワセ、豊かな気分なのだ。炊き立てのめしに生タマゴや味噌汁をかけて食べ、満ち足りた気分になることもある。味のない豆腐も料理の仕方で楽しい気分が得られる。
ようするに食の豊かさは、モノが豊富かどうかだけでは決まらない、人の意識や感覚や能力などの関わりが大きいということを言いたいのだ。言い方をかえれば、生産者、製造者、販売者、消費者の連続する共同の行為の結果として、豊かさが決まる。
もちろんそれは、豊かな気分という意味での豊かさであるが、日々の暮らしにおいては、けっこう大切なことだろう。
これで、とりあえず今晩気持ちよく眠れるかどうか、明日気持ちよく起きて働くことができるかどうか、かなり左右されるはずだ。
力強く生きる元気がわいてこそ、食は豊かであると言える。
ふとんで思う
明日の茶のうまさ
では、日常の食の豊かさは、どうすればもたらされ、手に入れることができるのだろうか。私は、「ありふれたものをおいしく食べる」ことの追求だと思う。それぞれが関係する職業的立場で、それを追求することだろうし、また立場はちがっても人びとはおなじように日々食べることをするのだから、そこでの追求もある。生産や加工、食品や料理だけではなく、食事の時間やスタイル、家族や友人など、いろいろなことが関係する。
「ありふれたものをおいしく食べる」とは、フツウのものをフツウにおいしく食べるということである。そのために想像し執着し工夫する。フツウのことは惰性に陥り新鮮さを失いやすいから、新鮮に保つ努力が必要だ。高いところだけみた競争や、派手な目先の話題性にふりまわされ、フツウを粗雑におろそかにしていないだろうか。
私は、よく睡眠のふとんに入ってから、朝起きてまず飲む一杯のお茶のうまさを想像する。それはとても心地よい豊かな気分のひとときだ。「起きたら、まずあのお茶を飲もう」。しかしそのお茶は、ありふれた「徳用」のものである。この簡単な一杯で、生きているシアワセに目覚める。夜中に眠って死んだ生命が生きかえるかんじがして「ヨシッ、今日もやるぞ」と思う。急いで立ったまま一杯だけ飲んで出かける朝もあるし、そのあと元気よく朝酒をやってしまうこともあるのだが、これが「ありふれたものをおいしく食べる」その日の第一歩だと思っている。
そのように、食の豊かさは、あるのではなく、育てるものだろう。育てる行為は地味だが続けることで、カタチのないものが文化として維持される。食品が豊富であることは必要だしよいことだと思うが、ありふれたものをおいしく食べることを日々思い、想像し、日々つむぎだすことを意識的にしなければ、食の豊かさは育たない。
私の食文化的な体験と視点でいうと、そういうことです。
食のこころ こころの食 連載トップ…
クリック地獄
1回目 「食のゆたかさ」ってなんですか
2回目 必然か おせっかいか 食育基本法…クリック地獄
3回目 家事労働 炊事 女と男
4回目 食を支える仕事の誇り
5回目 「階層社会・日本」の食
6回目 「魚食べない」も時代お流れか
7回目 健康「ブーム」は行き過ぎか
8回目 食料自給率「40%」は危機か
9回目 飢餓はこの世からなくせるか
最終回 食のこころ こころの食