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書評のメルマガ08年8月12日発行 vol.372

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■食の本つまみぐい  遠藤哲夫
(29)むかしは、よかったなあ、「グルメ」なんぞいなくて。
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創元社編集部編『続・大阪味覚地図』創元社、1965年1月

 きのう8月7日大阪から帰ってきた。この原稿の締め切りは9日とばかり思い込んでいたのだが、さきほど、きのうが締め切りだと気がついた。なので、とり急ぎ、この本にした。

 本書が発行になったころ、おれは、臨時雇いを転々としたのち、やっと正社員で入社できた会社の仕事で、大阪に一年近く住んでいた。そして、今回は、9月1日発売予定の「ミーツ・リージョナル」10月号の「ザ・めし」特集の取材で大阪へ行ったのだけど、少し時間があったので、そのころ住んでいたあたりをウロウロした。当時もそうだったが、今回も行ってみて、変っていねえなあと思ったのは、そこは阿倍野区の東天下茶屋というところだが、つまりキタでもミナミでもない、大阪のはるか南のはずれの「下町」というか「場末」なのであり、いつも新しい開発の波からは捨て置かれてきた。その風情が満々と漂っていた。

 おかげで、天王寺の近鉄デパート横から出る、「阪堺電軌上町線」は一部路面を走るチンチン電車のままで、東天下茶屋駅そばの「玉突」屋もそのままで、おれはトツゼン、あの1960年代なかごろにタイムスリップしたのだった。

 大阪にいるあいだに、本書にのっている店は一軒も行かなかった。本書の存在すらも知らなかったし、いまでもあまり本を買わないおれは、当時はめったに本屋に寄ることもなかった。だいたいおれの職種は営業で、奈良、京都、神戸をまわっていることもおおく、出先でテキトウに店を選んで食べることをしていた。ふところぐあいにあわせ、カネがないときはないなりに、あるときはあるなりに。

 とにかく大阪は、フツウでも、安く食べられた。キタナイ、コワイをカクゴすれば、さらに安く食べられた。そんな中で、おれが東京から行って、よろこんでよく食べたのは、スブタとシャブシャブなのだ。どちらも、東京では、手が出ないほど高かった。というか、シャブシャブは大阪へ行って初めて知った。一人用のシャブシャブ鍋が据付けられたカウンターに座って、フツウに、昼飯に牛肉をシャブシャブやりながら食えるというのは、カンドー的だった。スブタ・ライスも、東京では、ありえない値段で食べられた。

 知らなかったが、本書を見ると、シャブシャブがその名前で大阪の都心の街頭に進出したのは、ちょうどこの時期のことらしい。そのころサラリーマンの多いキタの街を歩いていると、「シャブシャブ」のポスターや看板があって、それでおれは入ってみたりしたのだが、「本みやけ〈スキ焼き〉」の項に、こう書いてある。「スキ焼きのほか、バター焼き、水炊きがあるが、バター焼き、水炊きは、あっさりしていていくらでも食べられるので、うっかりしていると予算が超過するおそれがある。ここの水炊きと同じ方法で「シャブシャブ」という名で売り出している店もあるが、水炊きに関しては、ここが元祖といってもいいだろう」

「シャブシャブ」の「元祖」については、いろいろ伝説があるが、カウンターで1人でも食べられる方式は、このころ普及したにちがいなく、70年代に東京でも普及したが、いつのまにか姿を消した。

 それはともかく、本書は、まだ「グルメ」の気配もないころで、本書の執筆陣も「食通」や「評論家」を気どることなく、店の受け売りを自慢そうに語る能書きも控えめだ。ときには食通を皮肉ってすらいる。梅田地下街にある、オヤジたちの憩いの場「ぶらり横町」。そこの「お里」、ここはいまでもあるが、おれは入ったことがない、いわゆるホルモンの串焼き屋ということになるか。そこには、こう書いてある。「ここではビフテキなんか牛肉のクズである、なんて気がするのは不思議だ」

 いまどきの「グルメ」や「評論家」は、味覚の楽しみより「自分自慢」が多いが、当時は、書き手の余裕というか、味覚を悠々と楽しんでいる様子があふれている。

「イタリア〈スパゲティ〉」の、「ほかに野菜オンリーのスパゲティもある。これは人の好みや食欲によるから絶対とはいえないが、わたしはこれが最高のように思う」なんて書き方を見ると、むかしは、ほんとに人や味の個性を理解している人たちが書いていたのだなあ、そこへいくと、いまは自分が絶対の「神様」のような口ぶりの連中がふえたことよ。マズイものやマズイ店をあげつらねて、えらそうにしている連中も、ふえた。ああ、むかしは、よかったなあ、だいたいこんな本なんかなくても、じゅうぶん食を楽しんでいたんだもの。と思うのだった。ああ、やっぱり、むかしはよかった。

 とりあげられる店も、「あかふんどし」なる安直な飲み屋から、ガスビル食堂のような高級店まで。「続」とあるが、『大阪味覚地図』の改訂版のことのようだ。1970年版『大阪味覚地図・北』になると、創元社編集部編ではあるが、執筆者に大久保恒次さんのような「大物」が登場、やや「通好み」「通気どり」がクサイかんじになる。

〈えんどう・てつお〉大阪の雑誌の取材だの、新潟日報にコラムの短期連載だのと、もっぱらローカルにやっています。
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