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[書評]のメルマガ 06年12月8日発行 vol.291

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■食の本つまみぐい  遠藤哲夫
(21)人間じゃなければよかった
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茂木健一郎『食のクオリア』青土社、2006年6月

 この著者の本は読み終えるたびに、おれとは別世界の育ちのよいお行儀のよい頭のよいひとがいるんだなあとしみじみ思う。そして今回は、それにしても、このように脳や脳の働きがわかってしまったひとの食生活や性生活とは、いったいどんなものかと想像することになった。たとえば性交のときなどは、ああっドーパミンがやってきた、きたぞきたぞ待ってましたこの脳内快楽物質、だけど性の快楽は生理であるが文化の制約も受ける、部屋のクオリアや照明のクオリア、相手の髪型のクオリアなどによって、射精の瞬間のクオリアはちがってくるのだ、おおっ立ち上がってきたイクぞ〜クオリア〜あああ、なーんてことなのだろうかと、お下劣でバカな妄想にふけってみたり。

 が、妄想からさめ考えてみると、発達した現代文明のもとで生きるには、たかだかめしを食べるにしても、この程度の脳に関する知識が必要な時代なのかもしれない。なにしろ「食育」がクローズアップされるほど、食の「乱れ」が問題になっているのだ。それは文明の進化についていけない脳の結果かもしれない。文明以前なら、寝食を忘れ放り出して仕事や好きなことに没頭するなん
てことはありえなかったであろうが、それがいまやどうだろう、地方条例による「朝食運動」まで出現している。とりわけ日本という国には、寝食を忘れて仕事や何かに没頭することを「美化」「自慢」するクセがあったようだ。

 じつは、空腹の仕組みすらわかっていない。有力な説はあるが、決定的とはいえない。空腹は生理なのか心理なのか。拒食症や過食症は、なぜおこるのか。ようするに、食については誰でも体験し語れるほど平明日常のことでありながら、自分の空腹の仕組みすらわからない。ちょっとしたことで、過食や拒食に陥り、あるいは食事を生きてるついでのテキトウなものにしてしまう。だからまた、「知ったかぶり」や「グルメ」で、わからない自分の食のバランスを保とうとする。世にある食の本の多くは、そういうものであり、食とは難物やっかいなことなのだ。その、やっかいなことを、お得意の「クオリア(意識のなかで立ち上がる、数量化できない微妙な質感)」なるキーワードでかきわけてみようというのが本書だ。

 やっかいといえば味覚、「おいしさ」だ。本書は「おいしさの解剖学」と「おいしさの恵み」にわかれ、食に関する24のエッセイが収録されている。なかでも「おいしさの安全基地」は、一言でいえば、「おふくろの味」という表現になるのだが、そこは生きる自分が絶えず立ち返るところのはずのものだ。その安全基地が失われる怖さ、について著者は直接ふれているわけではないが、著者に導かれチョコレートや原始の食さらに遡り海中生物であったころの記憶から宇宙食まで徘徊し通読したあとで、そこに立ち返り、いまとんでもないことを失いつつあると思う。寝食を忘れたり後回しにして本を買い読むようなバカモノたちには、ぜひ読んで欲しい一冊だ。

 本書は、おれも「大衆食と「ふつうにうまい」」を寄稿したことがある、財団法人塩事業センター『webマガジン en』(http://web-en.com/)での連載に加筆・修正のうえ刊行された。著者のクオリア・シリーズのなかでは、おれのようなバカモノにも、いちばんわかりやすかったし、食のクオリアだけではなく脳のクオリアとはこういうものかと、ちっとはわかったつもりになれた。

 どうもこの著者の文章は苦手なのだが、食の現象からヒョイと身近なことを取り出して、実証的に論理的に、そして詩的な飛躍というか直感や想像を自在にはたらかせ、形而上と形而下の境を溶かしていくような表現は、それ自体が脳であるようで、読んでいるうちに著者の脳のなかに自分がいるような錯覚をおこす。こういうひとが教祖になると、オブナイな。おれは人間ではなく、単純に食って、運がよければ一回ぐらいセックスして死ぬだけの動物のほうが、めんどうがなくてよかったなあ。というのが最後の感想。

〈えんどう・てつお〉フリーライター。今年も、よく飲んだ。茂木健一郎さんは酒が好きなようで、本書でも「正しい酒の飲み方」で飲酒を擁護礼賛している。「人間の脳は。結局は快楽主義である」と。では、年末年始も、快楽全開。