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[書評]のメルマガ2005年12月9日発行 vol.241

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■食の本つまみぐい  遠藤哲夫
(15)台所を見つめてみよう
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栄久庵憲司+GK研究所『台所道具の歴史』柴田書店(味覚選書)、1976年

これまで紹介の本は、最初の江原恵『庖丁文化論』をのぞくと、食文化の表層つまり風俗に近い部分を概観する趣旨のものが多かった。まだ連載は続けられるようなので、食文化の表層から、骨格の部分へ入ってみたい。

小津安二郎監督の「東京物語」だったと思うが、座敷の前の廊下から、奥にある台所が写る場面があって、薄暗い台所に鉄パイプの脚のテーブルが輝いて見えた。ほとんどの日本人が座敷でちゃぶ台にむかい、「ダイニングキッチン」という言葉を知らなかった時代だろう。1960年代なかば、おれが最初の結婚で入居した職員住宅は「2DK」と呼ばれたが、まだそういう呼び名の住居に住むのが、羨望される時代だった。そして、新婚の二人は、安っぽいピンク色したデコラトップのテーブルで、インスタントコーヒーにトーストの朝をむかえるというのが、マットウな健全な日本人のあこがれだった。その時代、おれもそうだが日本人は、DKという生活スタイルは、外来の「洋風」のものだと思っていた。

ところが本書では、調理は、どの場所で何を使って始まったのかと、縄文期のツボ・カメ・ハチの話から、台所と台所道具が生まれ育ち、あるいは消え、あるいは再生する様子を縦横無尽に描き、最後のほうで、DKなんていうが、じつはあれはね、と、こう書く。「戦後もてはやされたダイニング・キッチン、リビング・キッチンはその西洋風の名称とは裏腹に、農民のワンルーム住居の
復活なのである」。本書は、エッと思うような、おどろきの連続だ。

とくに食や料理は、毎日のことなのに、その知識たるやマチガイやカンチガイが多い。料理や味覚は、食べると消えてカタチが残らないからで、それをまたイイコトに、文字をあやつるアヤシイ人々がマチガイやカンチガイのまま書き散らすことを重ね、いつのまにか誤った常識がフツウになる。ま、コンニチでも、かなり多くの食系の本には、ごく基本的なマチガイやカンチガイが少なくないのは、そういうわけなのだ。そこで、ところが、料理や味覚にイチバン近い物的証拠というと、台所道具である。

それが語る近現代は、日本人の大多数は人間らしい美味を楽しんでこなかったという事実だ。むかしの人は、おいしい釜のめしと旬の味を楽しんでいたというのは、ノスタルジーがもたらした幻想にすぎない。味噌と醤油と塩で味付けするだけの美味から遠い料理を、「素材」を生かした料理というコジツケで片付けてきた。これは江原恵さんの主張でもあったが、本書はそれを台所道具という物的な面から裏付けているともいえる。たとえば日本人が執着していた羽釜にかわり、なぜ電気釜が急速に普及したのか。著者は、こう指摘する。戦後の電気釜が普及した時代の主婦「彼女達は、米さえ十分になかった時代に育ち、うまく炊かれた御飯の何たるを知っているわけではなかった」。彼女達はまた、もっともよろこんで化学調味料を受け入れたのだった。であるから、コンニチのあやしげなA級B級グルメが可能だったのだ。

そしていま、食育だのなんだの騒がれて、戦後の「カタカナ文化」が日本の食を堕落させたかのような、お粗末な論がまことしやか流布している。カレーライスにしてそうだが、カタカナであっても日本人の知恵から生まれた台所があり料理がある。アタフタ知ったかぶりグルメもいいが、著者の言葉に耳を傾けてみよう。「もう一度身のまわりを見直してみよう。私たちの生活にとって、台所はどのような未来があるべきなのか、それは判らない。しかし、私たちが本当に望むもの、未来の台所の方向を示す兆しがあらわれている。私たちはそれを注意深く読みとり、育てていく必要がある」

本書の出版から、30年たとうとしているが、現状は、どうだろうかな。本書の内容については、おおいに議論あるところだろうが、とにかく、日本の台所道具の歴史を、総合的な視点で通史的にまとめたものとして画期的なものであり、かなり話題になった書である。

〈えんどう・てつお〉フリーライター。12月15日発売の月刊『食品商業』(商業界)1月号から、「食のこころ、こころの食」という通しタイトル で、毎号編集部からいただいたテーマについて書く、ということをやる。はたして、続くか? 初回は「「食の豊かさ」ってなんですか」だ。よろしく〜。酒盛の季節なのに、来春2月発売予定の酒本の原稿のために、酒の取材をしながら、忙しくてあまり酒が飲めないという皮肉な日々。でも、飲んでるよ。