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[書評]のメルマガ2005年4月15日発行 vol.210

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■食の本つまみぐい  遠藤哲夫
(11)日本の「知性」な問題と自画自賛
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ジャン=フランソワ・ルヴェル著、福永淑子・鈴木晶訳『美食の文化史 ヨーロッパにおける味覚の変遷』、筑摩書房、1989年

 かりに日本の食文化本から、日本の知性をおしはかった場合、ほんの一握りをのぞいて、アワレ近代以前の状態であるといえるだろう。それは、本書をはじめ、89年の『食卓の歴史』(スティーブン・メネル著、北代美和子訳、中央公論社)、96年の『美食の歴史』(アントニー・ローリー著、池上俊一監修、富樫瓔子訳、創元社)、97年の『食の文化史』(ジャック・バロー著、山内昶訳、筑摩書房)など、ほかにも代表作があるが、近年の翻訳モノをみると歴然で、日本の精神の貧困そしてだからこその食文化ブームやグルメブームどんちゃん騒ぎにゾッとする思いだ。結論を急げば、知識の量は膨張したかも知れないが、合理的精神や論理性に欠けるということにつきる。

 本書では、物知り顔の日本人なら知っている“フランス料理はイタリアのメディチ家の娘が料理人を連れてフランスへ嫁にいったことに始まる”ということに歴史的事実をもって反論するくだりがある。でも、日本の物知りのみなさんもアンシンしてよいようだ、その虚構の歴史はフランスの「最も批判的な精神の持主にすら、なんら抵抗なく受け入れられている」そうだから。日本のカレーライスの歴史みたいだ。

 そこで著者は、その論理の図式をあげながら「これは一種の循環論法であって、ある事柄によって別の事柄が証明されたと思い込むが、実際には証明されてないのである。結果、十六世紀半ば以降のフランス料理の変革(それ自体疑わしい)は、この想像でしかない事実と完全に結びつけられてしまう」と指摘する。

 こういうことを、日本の食談義は、性懲りもなく続けている。学者・研究者も一緒になってだ。「想像でしかない事実」による循環論法がのさばっている。それと「三段論法」ぐらいか。時代的地域的現象にすぎないことが、さもさも「日本的」「普遍的」であるかのような言説はザラ。それをもとに「日本人の食は堕落した」とか。ああ、やんなっちゃうね。ちょいと調べて、ちょいと合理的に考えてみればよいことなのに。

 NHKがゴタゴタ騒ぎの末に発表した「平成17年度「コンプライアンス推進のアクションプラン」の策定」というのをWebで見て思った。エリートにしてこのザマだ。「コンプライアンス」「アクションプラン」なーんて、おれが知らないようなイマ風な言葉をつかっているが、その中身の論理のお粗末。カタカナ語と漢字の多い慣用語句をひくと何も残らない。ようするに論理がチャチなのだ。そこが近代以前なのだ。そういう意味じゃ、日本人は漢字とひらがなとカタカナがあって、「カレーライス」の料理技術とは何かを考えなくても、「カレーライス」という言葉で料理を演出できたように、本質を考える論理ナシでも、「表記」をつかいわけることで現実をごまかすことができる。知的?そうな表現、上品?そうな表現、物知りぶった表現、過剰な表現……そういう知恵だけ発達したのが日本の知性のようである。日本人は近代的論理に鈍感な民族なのか。それに食の話を甘くみすぎじゃねえのか。

 そこへ行くと、拙著『汁かけめし快食學』は、日本の食文化本にはめずらしい、論理を駆使している。論理に関心がない人には通じないだろうが。そもそも食べれば消えてなくなる食の分野では、論理的探究が大事なのだ。そして、残念ながら欧米と、かなり開きがある。情けなくて、お話にならない。最後は自画自賛でした。

〈えんどう・てつお〉昨年8月16日にTBSテレビ「はなまるマーケット」に出演し、プチ奥様番組にホームレス姿なおれじゃミスマッチすぎて2度とないだろうと思っていたら、ナゼカまた出演依頼があって、昨日(8日)ビデオ撮り。放映は13日だから、このメルマガ配信のころにはあとの糞。