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[書評]のメルマガ2004年4月8日発行 vol.159

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■食の本つまみぐい  遠藤哲夫
(5)「日本料理」の「伝統」がワカル
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児玉定子『日本の食事様式 その伝統を見直す』中公新書、1980年

 1回目の江原恵さんの『庖丁文化論―日本料理の伝統と未来』と本書を読めば読むほど、日本料理の抱える課題や奇妙な面白さを発見できる。本や雑誌のネタやテーマになることが、ごろごろ転がっていてヤクニタツ。どちらも古い本なのに、それほど、日本料理の状況は、変わっていないのだ。

 一言で「日本料理」というが、うまく簡潔明瞭に説明できるひとは、おそらくいないだろう。スシとテンプラとサシミぐらいじゃ、伝統が泣くぜ。しかし、「伝統主義者」にしても、なかなか説明は難しいようだ。例えば、いま「伝統主義者」という言葉をつかったが、「日本料理」についていえば、「伝統主義者」とは、日本の過去の歴史のどこかに「日本の料理」や「日本の食事」の完成点をおき、あとはそれを守り伝えることだという「主義者」のことをさす。と、おれは考える。

 児玉さんは本書で、江戸期の中流以上の武士階級の食事に完成をみている。しかし、児玉さんは本書の経歴にもあるように「日本料理四条真流師範」だったが、四条流だけでも、この「真流」以外にもイロイロあって、その一つの「四條司家」のある「指南」は、平安期に「これ以上、付け加えることができないくらい頂点を極めていた」と主張している。懐石の流派では、また違う。というぐあいなのだ。で、いま「伝統食」や「和」がブームといわれたりするが、たとえば、「厚労省系」と「農水省系」と「経産省系」の論者では、日本料理や伝統の解釈が違う、ということが、この本を読むと気づいたりする。そういう奇妙な現象の「日本料理」の泥沼が、見えてくる。伝統主義「日本料理」には、「おかず」といわれる「民間」の家庭料理は含まれない。それもまた奇妙なことだが、本書で、その事情は、納得できないがワカル。

 1913年生まれの児玉さんは、家政学の分野で重鎮といっていい立場のひとだった、とにかく「上層の様式」にしか価値を認めていなかった。それはまた「家政学」の潮流でもあった。「日本料理」って、なんなのさ?

〈えんどう・てつお〉フリーライター。今回は『日本料理の基礎』を予定していたのだが、いつも整理が悪いため、その資料がどこへいったかわからない。キュウキョ、同様の「伝統系」ということで本書に。