03年末蔵出し写真展‐3

(03年12月9日版)

前回と前々回の補足。



昨夜、近くの赤ちょうちんでイッパイやっていたら、テレビで、タイトルは忘れたが「秩父事件」映画の情報を流していた。それを見て思い出したのだが、小鹿野町藤倉となれば、このことについてふれないわけにはいかないから書く。それに10月にここを訪ねたとき、その映画の撮影の話をしていたし。

「秩父事件」である。これを「事件」というが、「秩父農民戦争」と言ったり、「秩父一揆」といったり、「秩父困民党事件」といったり、さまざまである。その真相は、いまだにハッキリしてない。

この写真は、前回のクマやイノシシと格闘する畑の下、一日に4往復のバスが通る道であり、前々回の庭先でバーベキューをやる家は、この道の正面、道がカーブする左側の上にある。秩父困民党が、自らの税金で近代的に強化された軍隊と新式村田銃に蹴散らされ、四散した一部が逃げた矢久峠は、写真の手前の方へ登っていくとある。

この藤倉の一帯に住んでいる先祖で、この「事件」に関わっていないものはいないらしい。つまり「困民党」に、なんらかの「加担」をしていた。と、判断していいことをチラチラ耳にするが、誰も明言したがらない。それこそ、真実ではないだろうか。

この「事件」そのものを普通に話すのが難しい。いまもって、である。これは、何を意味するのだろうか。ということに、かえって興味がわく。そして、この「事件」が、むしろ「事件」の終結のあと、この地域に何を残したのか、というのが気になる。しかし、この件に関しては、みなさん、なかなか口がかたい。

とにかく、江戸期の書き残しをみれば、それなりに豊かな生活ができた山村があった。そこが、明治になってから「困民党」なる蜂起をする。「困民」をもたらしたのは、あきらかに明治政府だった。そして、その意味するところは複雑である。つまり、民が困する理由は、もう一つあり、「賭博」であったといえる。しかし、江戸期にも、賭博は盛んだったのだ。だから、賭博を問題とするならば、こんにちでもある「天皇杯」というものをぬきには、考えられないだろう。いずれにしても、山村の貧困と荒廃をもたらしたのは、「外敵の脅威」にヒステリー症状の近代政府であることには、ちがいない。

とにかく、さらなる問題は、事件のあとであり、戦後ではないだろうか。しかし、住人は「なにせここいらは困民だからのぉ」と高らかに笑い、その話は避ける。もしかしたら、「事件」は、まだおわってないのである。小説や映画で語られていないことが、まだたくさんあるにちがいない。

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