六本木食堂は、04年10月29日、閉店いたしました。 長いあいだ、ご苦労さまでした。ありがとうございました。 →詳しくは、当サイト内、こちらをごらんください。 (03年9月23日掲載の、読者からのレポートがあります。営業時間や休業日は変更になっているようです、こちらをご覧ください) ひとつの 六本木青春物語 (01年5月末掲載) 2001年4月撮影 六本木食堂 東京都港区六本木3-10-11 営業時間 10時〜14時 休み 日祝第1第3土曜日 はじめて六本木へ行ったのは、いつだったか。 東京オリンピックの前、たぶん1964年? たしか、溜池方面から、のろのろうんうんうなりながら上るチンチン電車にのって行ったのだった。 なんとなくぼんやりした暑い日の昼下がりだった。 六本木交差点の停留所で降りると、六本木食堂が見えた。 今では想像できない、あたりは広々としていて、 木造二階建ての白地に大きな文字の大看板が目に付いた。 それだけだ。 思い出そうとすると、あのころの街は白い砂ぼこりのなかに煙ってしまっている。 実際に、その日の六本木交差点あたりは、ほこりっぽい眠くなるような静かな景色だったような気がする。 1970年代と80年代、六本木には仕事の関係でよく行っていた。 道路の拡張やら高速道路やら地下鉄やら、しょっちゅう工事をやっていた時期があった。 あのあたりの裏道をあがったり下がったり、朝まで飲んだことも数えきれない。 せかせか仕事と飲酒に忙しくしているうちに、気がついたら六本木食堂はビルになっていた。 俳優座と六本木食堂は、どちらが先にそこにあったのかしらないが、道路をはさんでむかいあっている。 戦後の俳優座の俳優養成学校といえば、新劇界の「東大」という雰囲気で、インテリ貧乏役者の卵の集まるところだった。 いまでは有名な市原悦子や中村敦夫が若かりし時代である。 テレビタレントといった職業はなく、一生貧乏を覚悟で、好きな「板の上」をめざしていた青春があった。 その貧乏青年たちをみかねて、六本木食堂はめしをくわせていた。という「美談」は伝説として残っている。 当時の六本木食堂のご主人は、このビルのオーナーになって、もうだいぶ以前から店には出てない。 『大衆食堂の研究』を書くときに、取材を申し込んだが断られた。 あまり騒がれることなく、ひっそりやっていたいということで、その気持はわかった。 そのとき、「この食堂で働いてきたひとたちがいるし、そのひとたちが続けたいうちは続ける」と言っていた。 だがしかし、みんなもう若くはない。 いまでは昼だけの営業である。 モダンなビルの地下一階にあって、入り口には、ちゃんとむかしながらの雰囲気の暖簾がかかっている。 そしてチンチン電車のころの味わいの「おかず」が食べられる。 ついこのあいだ六本木へ行ったついでに、どうなったか気になってのぞいてみた。看板をみつけて、ほっとした。 営業時間外だったので、写真だけ撮って帰ってきた。 こんど六本木へ行くのはいつだろうか、そのときも、あってほしいと思う。 ヨッ大衆食堂│大衆食堂系一覧│備忘録消滅録 |