新潟日報連載6‐10


6、あたりばちラーメン(2002年2月25日)

  数年前。住んでいた、当時の埼玉県与野市で、午前0時すぎに灯りがついている「あたりばちラーメン」を見つけて入った。
  「いらっしゃいませ」の主人の声に、オヤッ、と思った。続いての「なににいたしましょうか」で、ピンときて尋ねた。「ご主人、新潟のひとだね」
  いわゆる標準語を話すときの独特の訛が、いかにも「六日町のひと」という感じがした。
  主人、若井晴男さんは、中魚沼郡津南町の山間の出身。わたしと同じ「魚沼人」というわけだ。それから近所を引っ越しても通うようになり、年齢も近いし、会うたびに話がはずんだ。
  若井さんは一九四一年生まれ、五七年中学校を卒業し東京の蕎麦屋に就職。長い勤めのあと洋子さんと結婚、七五年に、現在の場所、さいたま市下落合二丁目に自分の店を持ち、一女一男を育て、最近、家を三階に建て替えた。
  かつてラーメンはラーメン屋より蕎麦屋で食べるものだった。その東京の蕎麦屋には、新潟県人が多いという。江戸の昔から、銭湯の釜焚きに米屋の米搗きは越後人じゃないと勤まらないといわれてきたようだが、近年では蕎麦屋もまたそうだったらしい。そして若井さんのように、蕎麦屋からラーメン屋になった県人も少なくないと聞く。
  「小学校のときから、行き着かないと死んでしまうような雪道を歩いて通っていたから、粘り強くなるさ」「おふくろがにぎりめしを作ってくれて、今生の別れという感じで田舎を出たよ。いまじゃ日帰りができる」
  若井さんは「魚沼弁」を、わざと交えて話す。わたしは、うまくそれができないのだが、それだけにまた気持もなごむ。新潟の新旧を話題にしながら食べるラーメンや餃子の味は格別。  うまくて評判の店で、わたしは某週刊誌の「21世紀に残したいB級グルメ」に推薦した。ここも、故郷。

ご参考=あたりばちラーメン


7、思い出横丁(2002年3月4日)

  上京した一九六二年の五月か六月だった。わたしは、新宿駅西口、JRの線路沿いにある、当時は「ションベン横丁」の愛称で大勢に親しまれていた、この思い出横丁をウロウロしていた。
  小便の臭いがただよう猥雑な一角で、一人では近寄りがたい雰囲気だったのだが、無性にぜんまいの煮物が食べたくなって、意を決して踏み込んだのだった。
  いまでもそうだが、狭い通路に間口一間から二間の小さな飲み屋と食堂がひしめきあっている。そして食堂には、焼き魚や煮物などのおかずが何種類も、大きなバットに入って並んでいる。
  そこにぜんまい煮があることは、前に一度大学の友人に連れて来られて知っていた。だから、それが食べたくなったとき、すぐここを思い出した。
  しかし、一人では、入る決心がつかない。
  まだまだ見知らぬ人たちのなかに入っていけない気の弱い田舎者で、人ごみの通路を行ったり来たりしながら、ガラスごしに見える店員や客の様子をうかがい、入ろうか入るまいか、どこに入ると安心そうか迷い、やっと一軒を選んだ。
  食堂の名前は忘れたが、どこも同じようなつくりの、カウンターだけで、その上の棚、椅子に腰かけたときの頭の位置ぐらいにおかずが並んでいる。
  わたしは急ぎぜんまい煮を注文した。ほかに、さば味噌煮かいかの天ぷらを頼んだはずだ。
  そして食事をしながら、故郷の坂戸山でぜんまいを採って遊んだ子供のころを振り返り、ずいぶん遠いところへ来てしまったと思った。
  わたしにとってここは、そのように故郷を思い出したころを思い出す「思い出横丁」なのだ。
  あれからここで何度の食事をしたか数えきれない。いまでは小便の臭いもしないが、人影も少なくなった。ぜんまい煮のある食堂はないようだ。


8、かめさん食堂(2002年3月11日)

  全国ネットのテレビ番組に何度か登場した食堂だから、記憶にある方もいるだろう。その遠因はわたしがつくったらしい。
  かれこれ十年ぐらい前だ。流行とは縁がなさそうな古いかめさん食堂の戸を初めてあけたとき、わたしは思わず「おっ」と声をあげた。使い古したデコラ張りのテーブルを押しのけるように、ポット式の石油ストーブがデーンとあったからだ。
  それは高校生のころのスキー場の食堂であり、一九六〇年代の東京の大衆食堂なのだ。一気にタイムスリップした感覚。
  わたしはストーブのそばに席をとり主人、渡辺亀蔵さんと話しこんだ。そのとき、フト、こういう食堂の存在はジケンだなと思った。それが拙著『大衆食堂の研究』の企画と、ひいてはかめさん食堂が話題になる発端だった。
  さらに雑誌やテレビ番組の制作などで訪ね紹介することにもなったが、驚嘆の連続だった。
  いまどき釜と竈と薪で、めしを炊く。ガラスのショーケースには、さまざまなおかずが自由に選べるように並んでいるのだが、その野菜の多くは近在の畑のものを使っている。たとえば自家製の梅干だが、肉の厚い菓子のようで一度に二個ぐらいは食べられそうな近頃のメーカー製とはちがい、しっかり干してしっかり漬け込んだ、一個あればめしが二杯ぐらいうまく食べられそうだ。などなど、ポット式のストーブだけではない、失われた故郷の生活が息づいているのである。
  かめさん食堂は、埼玉県の朝霞市にある。都心の池袋から私鉄で二〇分ぐらいのところだが、農村地帯だった。亀蔵さんも妻の優子さんも、地元の農家に生まれ育った。
  そういうことがあるにせよ、いまでも同じように、故郷の生活を悠々と楽しんでいる姿に、尊敬に値する非凡な「凡人文化」をみる思いがする。

ご参考=かめさん食堂


9、おふくろの味?(2002年3月18日)

  ぬかづけ、いもの煮ころがし、きんぴら、さば味噌煮などが、大衆食堂の使い古しのガラスケースの器に盛って並んでいる。
  サンプルではなく、注文をすると、それがいまでは必要ならチンして出てくるが、かつてはそのまま出てきた。
  これは希少になったが、東京における一九六〇年代的外食のふつうの光景だったし、田舎から出てきたものには初めてという意味で、都会的な風俗でもあった。
  とはいえ都会的というには、あまりにも田舎くさく、だからまた田舎者は気安く出入りできた。なんといっても、そのおかずが、田舎くさい。だが、それは錯覚で、東京の家庭でも、同じようなものを食べていたのだ。
  いま、これらのおかずは、「おふくろの味」とよばれ、あるときは珍重され、あるときは貧乏くさいと敬遠される。
  その「珍重派」記事を書こうと雑誌の記者が、ある六〇年代のままの下町の大衆食堂で、「おいしいもの食べさせてください」といった。
  すると主人は、「困るなあ、うちにはとくにおいしいものはないのですよ。わたしら家族が、むかしから食べているふつうのものを出しているだけで。おいしいものなら、よその料理屋さんにたくさんあるでしょう」
  記者はあわてて「いや、いまは、こういうものがおいしいのです」と。
  たまたまそばにいた常連のひとりが、さば味噌煮を食べながら、「でもおやじ、これうまいよ、おふくろの味がするよ」
  リクツをいえば、「おふくろの味」なんていうものは存在しない。どんな味覚なのか説明しろ、といわれると困る。しかし、うまいまずいは、味覚だけの問題ではないのも確かだ。
  わたしも、おふくろの味をうまいという一人で、そこに郷里が介在していると自覚している。あとは謎。いいじゃないか。


10、山菜のたより(2002年3月25日)

  上京して、ちょうど四〇年になる。ちかごろ驚くのは、インターネットの普及で、故郷が身近になったことだ。
  わたしのホームページ「ザ大衆食」もリンク登録している「ゆきぐにネット」がある。これは六日町の方が管理人をしているのだが、懐かしい方言に触れられるし、常設のライブカメラを通しての八海山の画像を、いつでも見ることができる。
  その「ゆきぐにネット」で、すばらしい故郷の写真が満載の「魚沼の四季」と出会った。管理人の方とメール交信をしたら、なんと、かつてわたしが所属していた、六日町高校の山岳部の後輩である。
  たびたび見ては楽しんでいるのだが、最近、春めく雪景色の巻機山の写真に感動しメールを送った。すぐ返信があって「雪消えになると山は山菜が始まります。楽しみですよ」。うーむ、懐かしい、こらえきれない。巻機山にも登りたいし山菜も食べたい!という気分。
  山菜の思い出はたくさんあるが、春の巻機登山と登山口の清水での山菜料理は、なかなか忘れがたいワンパックなのだ。
  わたしが育ったのは町中の小商いの家で、高校生のころには朝食にパン食が入りだしていた。
  山菜は「山菜」と呼ばれることなく普通の野菜のように食べてはいたが、とにかく質量において清水にはかなわない。清水だけではないだろう、同じ地域でも町中と山間では違う。
  正確にいえば、上京してから、ぜんまい煮が無性に食べたくなったり、とくにアケビの芽である木の芽は東京ではむずかしく、山菜が価値あるものに思えるようになった。
  春山登山と称して出かけ、麓の民宿で山菜を肴に酒を飲みすぎて、その酒が八海山だったりすると「八海山に登りすぎた」などといい、山には登らずに帰京することもあった。
  山菜のたよりに、そんなことを思い出しながら、「ネット縁」の故郷と一緒に雪解けを待っている。こんなことは初めてだ。最近は、魚沼以外の県下のひとたちとも交流がひろがった。食べないうちに、しみじみ故郷。


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