あたりばちラーメン
新潟日報連載「食べればしみじみ故郷」02年2月25日夕刊から 数年前。住んでいた、当時の埼玉県与野市で、午前0時すぎに灯りがついている「あたりばちラーメン」を見つけて入った。 「いらっしゃいませ」の主人の声に、オヤッ、と思った。続いての「なににいたしましょうか」で、ピンときて尋ねた。「ご主人、新潟のひとだね」 いわゆる標準語を話すときの独特の訛が、いかにも「六日町のひと」という感じがした。 主人、若井晴男さんは、中魚沼郡津南町の山間の出身。わたしと同じ「魚沼人」というわけだ。それから近所を引っ越しても通うようになり、年齢も近いし、会うたびに話がはずんだ。 若井さんは一九四一年生まれ、五七年中学校を卒業し東京の蕎麦屋に就職。長い勤めのあと洋子さんと結婚、七五年に、現在の場所、さいたま市下落合二丁目に自分の店を持ち、一女一男を育て、最近、家を三階に建て替えた。 かつてラーメンはラーメン屋より蕎麦屋で食べるものだった。その東京の蕎麦屋には、新潟県人が多いという。江戸の昔から、銭湯の釜焚きに米屋の米搗きは越後人じゃないと勤まらないといわれてきたようだが、近年では蕎麦屋もまたそうだったらしい。そして若井さんのように、蕎麦屋からラーメン屋になった県人も少なくないと聞く。 「小学校のときから、行き着かないと死んでしまうような雪道を歩いて通っていたから、粘り強くなるさ」「おふくろがにぎりめしを作ってくれて、今生の別れという感じで田舎を出たよ。いまじゃ日帰りができる」 若井さんは「魚沼弁」を、わざと交えて話す。わたしは、うまくそれができないのだが、それだけにまた気持もなごむ。新潟の新旧を話題にしながら食べるラーメンや餃子の味は格別。 うまくて評判の店で、わたしは某週刊誌の「21世紀に残したいB級グルメ」に推薦した。ここも、故郷。 |
さいたま市中央区下落合2−4−1 (たつみ通り) |
■「あたりばち」とは、すり鉢のことだ。あたりばちラーメンでは、すり鉢状のどんぶりを使っている。色も形もすり鉢だし、内側にはちゃんとミゾが入って本当にすり鉢として使えそうだし、ここは味噌ラーメンが得意だから、もしかして昔の味噌ラーメンはすり鉢で味噌をすってスープと玉を入れてつくったのかと思いきいてみたが、まったく関係なかった。にしても、「どんぶり」つまり「どんぶり鉢」はすり鉢からの進化という説が実感できる。 ■とにかく、ここのご夫婦は休まない。火曜日が定休なのに、いつも2人で仲良く店で掃除やらなにやらやっている。オヤジは、「特技はラーメンづくり、趣味は掃除」などといっていたが、まさにそういう感じなのだ。店は磨き上げられてピッカピカだし、奥さんもきれいだね。 ■メニューは各種ラーメンとチャーハンとギョーザだけ。どれもボリュームたっぷりで腹一杯になる。ラーメンじゃすぐ腹が空くなんてことがないように、という主張なのだ。アンがたっぷりのギョーザがうまい。おれはラーメンは醤油しか食べないが、ここのオススメは味噌で、客の多くは味噌を食べている。 ■『週刊朝日』2000年最初の号の特集「21世紀に残したいB級グルメ ラーメン編」で、おれは、ここを推薦した。そのコメントには、こうある。「モヤシを炒めて取ったスープで仕立てたつゆがよい。ガンコ親父がしかめっツラで確かめる麺の硬さもいい」。九州から電話をかけてきたひとがいるそうだ。いやな世の中になったと思ったが、おれもそういういやなことをやっている。 ■だけどオヤジは当然ながら、そんなことは関係ない、地域のひとを大事にしている。ラーメン屋は地域とともにあった、地域の食堂なのだ。ここも開店以来の常連が少なくない。カウンターだけの店だけど、子連れが気楽に食べに来るからいいね。食事するところだものね。わきあいあい。 ■かつては2、3分のところに住んでいたので、しょっちゅう行っていたが、いまは一駅電車に乗らなくてはならないから、ラーメンごときで電車賃だすのはしゃくだが、ときどき食べに行き、ついでに電車賃の効率化のために生ギョーザをみやげで買ってくる。 (03年1月10日記) |
いつもピッカピカ |