深川丼に関する
宇宙開発より大きな夢


(2001年3月14日記、2002年5月7日改訂)

昨年末(2000年12月)発売になった東陽片岡さんの新作『段ボール低国の天使たち』の腰巻帯には、花村萬月さんの「じつは、東陽片岡であるということは、生まれながらにして正統であり、古典であるということである。」ナンテ、漫画本にしてはムズカシイお言葉があって、おれには難解で酒のんで悪酔いした。

そもそもブンガク小説家なんていうのは、わけのわからないことをいって、ひとを煙に巻くのが商売のワルイやつらだ。しかし、漫画はちがうのである。漫画はわかりやすいのが本来であり、東陽片岡さんの漫画は、じつにわかりやすい。ハハン、だから、「正統」で「古典」なのか。

おれはちかごろよく落語をきくのだが、江戸庶民の猥雑で不逞な泥んこ人生、肉体労働者クサイところを、きれいに洗い落とした感じの落語が多いような気がする。ただ気持よく笑えればいい、心地よいのが洗練であり芸術であるという、世間の「芸術教養気分」に流されているような気がする。ようするに、おもしろくても、キツイ冗談がない、どろどろの迫真の芸がない。

もちろん、少ないが、いい噺をきかせるひともいる。が、たいがいは、これなら竹屋食堂の常連たちの話のほうがおもしれえや、と思う。たぶん落語家の生活も感覚も、ハチ公やクマ公のような下層町民から離れてしまったのだ。クソッタレの上品ぶった「伝統芸術」じゃなくても、寄席に客が来なければ街頭でやればいいじゃないか、たまには南千住の[大利根](注1)の前でやったらどうか、という気がする。

それで、えーと、東陽片岡さんの漫画には、そういう落語が失いつつある、落語の世界(つまり現実の世界)があって、とても好きである。オチも巧みだし、くだらない冗談は、すさまじい。ようするに、われわれ庶民は、落ゴな人間であり、落語な人生なのだよ。そういう開き直りが必要なのだ。しかし、そういう庶民とボクはちがうぞ、知的人間なのだ、教養人なのだ、趣味人なのだ、文化人なのだ、散歩人なのだ、国際人なのだ、ゴミ処理市民なのだ、地球市民なのだ、という庶民がふえているのだろうな、きっと。

それはともかく、その『段ボール低国の天使たち』の欄外の一隅にしんじくのS食堂へ。「アジの開き定食ごときで、890円も取んなよなクソタレ」と落書がある。たしかに、高い。アジ開き定食は、都心でも600円前後が相場だろう。

それはともかく、もうひとつ。まだ欄外の一隅に落書があって、いちばん気に入ったのは、これだ。

立ち食いで深川丼を食える店を、誰か作って欲しいと思う今日この頃です。

本当だよなあ。いま深川へ行って、有名な[深川宿]で深川丼を食べると、1800円だぜ。「純」国産のアサリが高級化高額化しているから仕方ないのだ。

お、おれは、つ、ついに、中国の大連湾でとれ千葉の木更津で育ったとかいう、ややこしい安いアサリを買ってしまった。チキショウ。これっきゃ売っていねえんだよ。粒も味も、まるでちがうんだよ。情けねえニッポンだよなあ。それなのにまだ三番瀬干潟を埋め立てるといっているし。そりゃみんな、いまこの崩壊しつつある、オシャレなタワゴト生活のためじゃないか。

とにかく、もう大連湾のアサリでもいい、立ち食いで深川丼をくえる店の実現を、IT革命(この言葉、もうアイツのおかげでカビだらけだな)やデジタル衛星放送や宇宙開発より優先して望むしだいであります。おわり。

宣伝。どうか、この深川丼のようなぶっかけめしの歴史を初めてまとめあげた痛快本、『ぶっかけめしの悦楽』をもっともっとひろめてください。それで、もしおれが儲けたら、そのカネで立ち食い深川丼屋をつくります。これ公約です。おれを首相にしてください。機密費でぶっかけめし屋をつくります。ガハハハハ。(注2)

さて、それで、2002年5月7日現在である。注1の[大利根]は昨年経営者が逮捕される事件があって閉鎖状態だ、残念だ。さみしがっている男は少なくないはずだ。最近写真を撮ってきたので、いずれ「メシゴトグラフィティ」で報告したい。注2の深川丼、なんと、立ち食いで深川丼を食べさせるところがあったのだ。偶然だが、北千住駅西口の立ち食いそばやで、おれが天そばを食べて出ようとすると、入れ違いに入ったひとが、深川丼を頼んだ。おれはもう出るところだったので、そのまま出てしまったが、立ち食いそばやにあろうとは、よくメニューを見なかったのがうかつだった。


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