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関川夏央さんのお言葉

(2001年5月22日記。2007年6月17日版)

『水のように笑う』関川夏央著(新潮文庫版)から

“水のように笑う”とは、ニヤニヤヒタヒタと笑う、かんじらしい。ホラ、西洋人や西洋人らしくふるまおうとしている日本人が嫌う、例のアイマイな、しかしじつに奥深い「東洋の笑い」です。

この本は、食がテーマではないし、収録された48の短編には、食の話はわずかである。食がテーマの本より、こういうところに食の実態や本質があらわれることが少なくない。

しかも著者は、“わたしは食べものの味には興味がない。そういう育ちかたをしたからだ”という人物だ。であるがゆえに、これは1980年代中ごろの、ふつうの東京暮らし30代独身男性の食のはなしとして見ることができる。

なにしろ「食エッセイ」だのというと、「うまいもの好き」や「食いしん坊」を自慢する異常な方々が書いたものが多い。この方々は、うまいものにこだわり偏執しているがゆえに、フツウの食感覚は欠如している。毎日うまいものや究極の美味を求めて食べ歩いているという異様な食生活のなかでの発言なのである。

そんなものを真面目に読んで食文化していたら、食事や料理は、とんでもないことになってしまうだろう。事実、そうなっているのであるが。でも、おかしくなっているのは、好きな連中だけだから、水のように笑って優しく眺めていればよい。

おれは、この作者は好きではない。が、けっこう読んでいる。なんていうか、彼のちょっとヘソ曲がりな「批評精神」が好きなのかもしれない。その彼らしい一節が、これだ。これが、食にも関係し、本のタイトルにも関係あるのは偶然だったのだろうか。

ヨーロッパでは毎日『洋食』を食べていた。しかしこれは西洋料理というより現地料理の感覚だった。おもに南欧に滞在することが多かったが、レストランに入るたびにそのレパートリーの少なさにあきれた。メニューはどこでも小ぶりな2ページ、肉や魚しかないじゃないかというと、『外人』が日本だってそうだろう、と口答えをした。 冗談じゃない、日本の民衆レストランには豆腐がある、野菜イタメがある、豚汁がある、マカロニサラダなんてのまであるぞ。

だいたい西欧には揚げものがない。ミラネーゼとかテンプラードとかあってもあれは違う。コロモにパン粉がついていない。わたしなど肉よりも実はコロモの方が好きなのだ。そもそも西欧には『むす』とか『むし焼き』という考えかたが欠落している。南欧でいえば焼きかたはグリジャード(網焼き)かアサード(鉄板焼)しかないではないか、と反論してみるが所詮東アジアの食物文化の偉大さを体験しない無知な連中には効果が薄いし、わたしの外国語の力量ではこみいった概念の説明がうっとうしくなってすぐに東洋の水のような微笑に逃げこみ、あきらめてしまった。

いわゆる食文化本では出会うことのない、みごとなエッセイ(批評)だと思う。

1985年の春から月2回ずつ書いて、単行本になったのは1987年。 バブル・グルメの始まりのころで、イタメシブームのまえ、フラメシとワインにウンチクをかたむけ、美食を語らなければ人間ではないかのような風潮が世相になっていった。

心地よいことはいいことだの「心地よいファシズム」の時代。とくに作家といわれるひとたちは、時流に乗り遅れないよう競い合うように、美食主義を誇示していた。その「一億美食翼賛」のさなかに、 ”このところの日本の西洋料理ブームはなんだろう。流行に弱いというより、これはアメリカ化の果ての現象ではないだろうか。日本でもアメリカ並みにまずい食事がゆきわたった。その結果の小さなぜいたくが卑小な食い道楽だろう” と、水のように笑った。

たしかに、忘れていたが、グルメ・ブームというのは、 1970年代のファミレスやファースト・フード店の侵略や、シティ・ボーイやシティ・ガールがコーラを片手にのし歩く「西海岸ブーム」といった「アメリカ化」のあとにやってきたのだ。

わたしはいつまでも少年時代の味から抜け出せない。一生塩ジャケの皮がうまいと思いつづけるだろう。

西洋料理の批評にうとくとも、なにを恥じる必要があるだろう。わたしは多忙なのだ。


パチンコ屋で出る台をひとに教えられる程度の技術を誇る人間は結局なにものにもなれない。


うーむ、痛烈だ。

しかし著者は、単純な「アンチ・グルメ主義」「粗食主義」ではない。そういうことではなくて、もっと、そのなんというか、ほかに語るべきことやるべきことがあるだろうという趣旨の、「アンチ・グルメ」なのである。

食べものの味に興味をもつような育ちかたをしていない人間(そういう文化と歴史の時代に育った日本人)が、あたかもガキのころから美食を楽しんでいたかのごときふるまいをする、そういう雪崩をうって自己を失っていく「世間」に「アンチ」なのだろう。

“なにものにもなれない”というあきらめと閉塞のなかにいる、しがない男と女が手の届く楽しみ、簡単に知的で気楽に粋な気分が、「グルメ」ってやつである。いまじゃ、「B級」「下町安酒場めぐり」も加わって。それでも、なにもないよりマシという気もするし、それでは、あまりにもさみしいという気もする。

しかし、世間の庶民は、メディアが騒ぐほど自己を失ったグルメではないだろう。彼らには、食べること以外に、食べるためになさなくてはならないことがあって、けっこう “多忙なのだ”。ふつうの庶民にとって生きることは楽ではないし、楽しみはたくさんある。朝から飲んだくれたり美食にかかわってはいられない。

問題は、書くにも飲食するにも批評精神のない「食文化本」「グルメ本」が多すぎるということではないだろうか。そういうものを書いて読んで“なにもの”かになったつもりでいる、「通人」「粋人」ライターのかんちがいは、水のように笑われても仕方ないものがある。