1997年9月1日発行の紙版「大衆食の会」の改訂復刻
『大衆食堂の研究』が発売になったのは95年7月末だった。おかげさまでまだこの本をおいている書店があり、まだ大衆食の会への入会申し込みもある。大衆食の会は、ますます元気だ。
いま、フジテレビの11月1日(日)午後1時11分からの番組「ザ・ノンフィクション」で放映予定の、仮題「下町熱血食堂物語」の制作に協力、進行中。
この二年間に閉店した大衆食堂はすくなくないが、新しくできた大衆食堂もある。とにかく大衆食堂のみなさんには元気でがんばってほしいし、おれたちはさらに応援したい。
95年8月エッ本が出版されるとすぐに『出版ニュース』から「書きたいテーマ・出したい本」の欄への原稿依頼があった。「いかがわしい無名文化の探究」というタイトルで「『あっぱれサバのみそ煮』という感じをやりたい…」などと書く。10月1日発売の10月号に掲載になった、が、本にしたいという出版社はあらわれなかった。わかってないのね。これからは、21世紀は「サバのみそ煮の時代」ですよ。ウフッ
95年9月7日発売『日刊ゲンダイ』9.8号―話題の新刊・著者インタビュー「大衆食堂でメシを食うのは<大人への通過儀礼>だった」。8月末に新宿中央口の喫茶店「滝沢」でインタビューされ写真を撮られたのだが、なぜか別人の顔写真がのるというドヒャン。記者は、この本の毒気にあてられたまま取材にきたようだったし、さらに冗談か本気かわからないようなおれの毒のある返答に混乱したのだろうか。オモシロカッタ。
95年9月丸善『学燈』9月号。明治に創刊された有名なPR誌、この格調高い本の情報誌に紹介されてビックリ仰天ビッ。なにしろ『大衆食堂の研究』は「激情駄文乱れ打ち」で、非文化的非文学的ロウブラウ路線をひたはしる…だが、もしかして、おれってやっぱり本質的にハイブラウな人間なのかしらとバカ。この紹介文、「民主食堂」は「民生食堂」の誤植だとおもうが、とても簡潔明瞭。敬服。
(『学燈』の紹介文です)
敗戦後の混乱が一段落、ようやくモノが食べられるようになった昭和三〇年代。二〇年代の外食券食堂、民主食堂が、三〇年代に入って「大衆食堂」の繁栄となる。即物的で猥雑だが、なぜかほっとする大衆食堂は、「メシを食う」原点であった。現在の上品なグルメ文化を罵倒しながら、活力あふれる庶民の“ジャンク・ライフ”を讃え、食堂の歴史から三〇年代の大衆食堂のさまざまを活写する。巻末に都内の現在の「食堂」リストを揚げる。
95年9月26日文化放送『吉田照美のやる気まんまん』の「興味津々」のコーナーに生出演。約20分間「大衆食堂の魅力」を、怪しくしゃべりまくった。当日、新聞の番組欄のサブタイトルには「もてない女は大衆食堂へ行け」とかあって、オイオイそんなこと打合せにはなかったではないか、「もてない女は大衆食堂に来てもダメ、来るナ」と言ってやろうとおもったが、電話で話していただけの担当の放送作家に初めて会ったらカワイイ系の美女だったので、おもわず言い忘れてしまった。すべての女たち、大衆食堂へ行こう。
95年10月9日発売『週刊ポスト』10.20号―ブックレビュー。『清貧の食卓』などの編著者であらせられる山本容朗さんに書評をいただく。毒悪なるところもチクリとやられたイテッ評論家ってコワイ。なお残念ながら川崎屋の「冷やしみかん」は、96年夏、店舗の改装があって姿を消した。涙…。
(この書評は、さすが評論家のものであると思わせるものだが、長いので省略、部分的に紹介する)
地方出身者が東京で出会うのは、三四郎(遠藤注=夏目漱石の三四郎のこと)なら下宿屋のめし、五木(遠藤注=五木寛之)、富島(遠藤注=富島健夫)世代で言うと、外食券食堂である。言わば外食券食堂、時が移ると大衆食堂となるけれど、これは東京同化物語の一つのキーポイントといっても過言ではあるまい。/遠藤氏は、六二年以降出会った大衆食堂をやや案内的に、しかし実質哲学的に考察する。/これは大衆食堂案内ではない。だが、川崎屋という店ではメニューに「冷やしみかん」あり、を読むと、なんとなくいい気分になってくる。///読み方によれば、この著作は、型破りの東京同化ストオリーだろう。だが、地方出身者には何かシコリが残る。それを癒してくれるのが大衆食堂だと読み手はそう勝手に解釈できる。また、大衆食堂は帰れない古里、消えてしまった所在の代替みたいなものであるかも知れない。熱っぽい語り口がこの本の魅力。
95年10月19日本が出版されたあとの初めての大衆食の会を堂々開催。「さばのみそ煮を食べる」ということで、パオを会場に、手製、冷食、缶詰のさばみそ煮を食し、かつ飲む。この日を「大衆食の会」設立記念日とし、国民が休暇をとって大衆食堂や大衆食に親しむ日としたい。ガハッ
95年10月31日発売『週刊プレイボーイ』11.14号特集記事寄稿。大衆食堂にころがっている雑誌のベスト3にちがいなかった、この「硬派男気文化」の雑誌の読者ですら大衆食堂へ行かなくなっているトホホ。その特集で、「男なら大衆食堂でメシをくえ!」と熱く熱く大衆食堂を語った。読者アンケートでも好評だったのだが…。ときどきカッコイイ男とカッコイイ女がディープな食堂でめしをくっている姿をみる。いいもんだゼ。
95年11月4日発売『月刊KITAN』12月号特集記事寄稿。読売新聞社から創刊まもない雑誌だった。大衆食堂を「トラッドな外メシ屋」としてまとめようという若い編集者に興味をもってやってみた。おれだって格調高い文を書けるんだゼというところをみせ、なんの毒のない、なかなか「品のあるカルチャー」にまとめた。評判よかったのだが、他のダメ記事が続いたのかどうか、この雑誌はやがて廃刊になった。
96年1月『ダ・ヴィンチ』2月号の「今月の腰巻き大賞」で、本の下に巻いてある「腰巻き」とよばれる帯に書いた「気取るな!力強くめしをくえ!」のコピー(広告文)が、有名コピーライターの仲畑貴志氏の「仲畑賞」を受賞。選評に「ぼくのような古い世代を納得させるだけの力がある」とあった。そうだ、おれも仲畑さんも年をとったのだ。なお96年末に発表になった年間の大賞でも次点に入った。パンツだけでなく、腰巻きも大事にしてほしいね。
(腰巻きのコピーです。ふつうは編集者が書くのですが、おれがコピーライター出身なものだから書かされました。1972年ごろ、おれがコピーライターの講座を受けていたころは、仲畑さんはすでに有名人でした)
気取るな!力強くめしをくえ!
小市民化した東京大衆をののしり、オシャレとウンチクとモノグサにまみれた食生活をたたく。「グルメ本」にはない下品さ、支離滅裂・荒唐無稽………だがね、忘れちゃいけない庶民の食堂、なつかしの昭和30年代の食堂。
96年1月キッコーマンPR誌『ホームクッキング』2月号。家庭の主婦を読者対象にしているような、大衆食堂とはもっとも縁遠い感じの本誌が、「大衆食堂と仲よくしましょ!」というタイトルで本を紹介してくださった。じつは大衆食堂の料理と家庭料理は深い関係にある。どちらも「いのちをつなげる営み」の文化なのだ。そこには「おふくろの味」なる観念もあるのだが。こういう料理は「生活料理」とよびプロや職人の「芸能料理」と区別したい。まったく異質。同じルールの碁のアマとプロのような関係ではない。将棋と碁ほどちがう。だがチョ今日は、「プロの料理」「職人の料理」を上に、生活料理を下にみる情報洪水の中。「プロの味」による「おふくろの味」というインチキも堂々まかりとおっている。なのに「近頃のひとは味がわかるようになった」なんてプップップッよく生活料理を知る者は、よく芸能料理を理解する、でありたい。
96年3月朝日新聞大阪版3.5タ刊。ナゼカ大阪の学芸欄の「夢中な人たち」で、大衆食の会が、「『大衆食堂』の灯を消すな」という過激な見出しのもと、森元暢之(ノブユキ)さんの過激な漫画とともに紹介された。そうだ、大衆食の会はとても過激だ。2月23日の竹屋食堂での大衆食の会に担当の記者の方と森元さんがわざわざ大阪から取材に来られたのに、おれたちはただの酔っぱらい、天下の朝日になんたる所業。これがおれたちの「地」。ま、この本を読んで大衆食の会に入会した人達に、コムズカシイことをいう気取ったやつがいるはずありませんテ。おれたちはなんでもアリ。気取った高邁ぶった慇懃無礼な活字文化の抑圧から解放され、ノンフィクションは事実をマジメに述べたものでなくてはならないなんていう欺瞞にオサラバし、偽善と虚飾と自己陶酔の手先になりさがった「教養・文化・芸術」とくに「食文化」を…どうでもイッかゲッ「汚い、大好き!」「下品、気持ちいい!」「不マジメ万歳!」オヘッ楽しい不良。
96年8月雪印乳業発行の食のマーケティングの分野では著名な『SNOW』誌8月号。「『食を売る』100の情報源」という特集で、「現代の食文化をめぐる知の水準を知るための本」として紹介された。「私たちが忘れようとしている戦後の日本の食文化をもう一度考えるときに読みたい本」だそうだ。ババン