消滅録3 2002年8月7日版 



玉家食堂
港区浜松町竹芝桟橋入口
湾岸1‐9‐13にあった

玉家食堂



写真左=大看板の右の建物が食堂部分。
写真下=突き当たりに玉家の大看板。左へ行くと浜松町駅、右はすぐ竹芝桟橋。


玉家食堂 遠景

(2002年8月7日記)

去る6月8日、このすぐ近くの都立産業貿易センターまで行ったとき、玉家食堂がハンバーガーショップチェーン店に変わっているのを見た。覚悟はしていたが、この地域には特別の思い入れがあり、感傷が残った。

写真は、1996年か97年の秋のものである。このときすでに玉家食堂は押し寄せる「ウォーターフロント開発」の波のなかを抗しきれない様子で残っていた。

JR山手線浜松町駅の東京寄りの改札口を出て東へ向かう。高速道路の下をぬけ、竹芝桟橋に出る、その竹芝桟橋入口信号のところに、玉家食堂はあった。

この一帯、写真下でおれがカメラを持って立っている位置あたりから背後、つまり日の出桟橋の一帯は、大倉庫街だった。そこには、よく仕事で行ったことのある月島の漁業関係の倉庫街とちがう人びと、ちがう景色と空気があった。

おれが初めてその地域へ足を踏み入れたのは、1970年代の後半である。そのときおれは、東京の別の素顔に出会った感じがした。ある種のカルチャーショックと言ってよい。倉庫街と、そこを足場にしている人たちに、すっかり魅了された。

倉庫として利用しつつ、雑然としたショールームであったり、むきだしのコンクリートのスペースを仕切った事務所であったり、住んでいる人もいた。潮の風と匂いが、あたりを覆っていた。

その一隅に一軒、とても気に入った大衆食堂があった。木造の、コンクリートの床に、例のデコラの安テーブル、30人分ぐらい。

そこに居れば、とにかく、自由で解放的で、いや放埓といったほうがいいかも知れない、気分がよかった。食堂の家族も客も、すばらしかった。

もちろん料理も、いわゆるおかずのたぐいがいろいろあって、安くてうまかった。たしか、ナスの油炒めだか油味噌炒めが人気だったように思う。

食堂は、いつも賑やかだった。作業着の男、安背広の男、高級ブランドのジャケットの男……。

男たちは、みな快活で陽気で、だがどことなく憂いがあり、眼が抜け目なく輝き計算高そうで、ひとくせもふたくせもありそうでいて、だらしなく素朴で、せかせかしているのに時間を忘れて話に興じ、大声で笑い、粗野なようでいて底知れぬ教養を言葉の端はしに感じさせる。

ま、そんな風で、ま、ひとことで言えば、アクティブ。ま、独自な匂いをプンプン発散させている男たちが多かった。ま、うん、食堂の家族も同じような雰囲気だった。ま、とにかくだ、この地域以外では、あまり見かけない、個性的な人たちが、たくさんいたのである。

おれは都会の「港町」というのを詳しく知らないのだが、この地域こそ東京のなかの港町だったのかも知れない。

そこには東京を厚く重く覆うサラリマーン文化とはちがう空気があった。山の手でもなく下町でもなく。まだ東京は多様な文化を内包できる都市だという、片鱗を見せていたといえるだろう。

その大衆食堂で、てきとうなおかずで昼間から酒を飲み、とらぬタヌキの皮算用の「ビジネス」をするということをやっていた時期があった。そういう話に、うってつけの場所だった。80年代の半ばぐらいまでだろう。

正直に言うと、そのころは、この玉家食堂には、まったく入る気がしなかった。なんというか、前を通って、「あるな」という感じだけで、やりすごしていたのである。

10年近くの歳月が流れ、1995年の『大衆食堂の研究』に、その倉庫街のなかの大衆食堂のことを書こうと思って行ったときだ。すでにそこらじゅうは破壊の最中だった。そして、この玉家食堂だけが、かつてのこの地域の面影を地上にとどめているにすぎなかった。

そのとき、初めて、玉家食堂に入ったのである。たしか、そこのオススメ品だった、ハンバーグライスを食べたような記憶がある。

それから2、3年たち、そういえば玉家食堂もなくなるかも知れない写真を撮っておこうと思い立ち、撮りに行った。すでに完成した新しいビルがあって、さらに地上高くクレーンがそびえ、ひっきりなしに動いていた。

倉庫街は、画一的文化が主役の洒落たビル街に変わった。

あの個性的で魅力的な男たちは、どこへ行ったのだろうか。

大衆食堂の歴史は地域の人びとの歴史にほかならない。


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