「スローフード」ってなにさのさの
あじ開き


このあじ開きは、加工地沼津 原産国韓国。はて?

(03年1月23日)

「スローフード」という言葉が宙を舞っている。例によって理念は悪くない。とおりのよい話というのは、そのように登場するものである。しかし、あいかわらず足が地についていない観念的なおしゃべり、あっしらの日常からはほど遠い、ひま人主婦か金融年金生活者か、はたまたイタリアの世界戦略にのって稼ごうというタレントやもろもろの連中の寝言です。

と、思っていたら、なんと、むかしながらの大衆食堂のめしも「スローフード」だというのだ。おいおい、おまえ、いつから大衆食堂のめしを食べるようになったのだ。むかしのものはみんな「スローフード」というのは、いかにもひどい雑な思考ではないか。そのように流行に飛びつく思考こそ、スローフードの理念と異質ではないのか。

そもそもですね、むかしの大衆食堂は「早い、安い、うまい」がウリだったのです。これ、いつの時代も変わることがない、大衆のニーズというものでしょう。スローフードでもなんでもない、大衆食堂のめしは、いつでもその時代の普通の生活のめしです。

それに、ただただ加工食品を排し地元のものを使い手間ひまかけてつくればいいというような主張ですが、たとえば、このアジの開きです。これは立派な大衆食ですが、加工品です。火にサッとあぶれば食べられます。こういう干物があったから、海から離れたところでも魚肉たんぱくが摂取できたのです。これは地元産のものを地元で食べる「地産地食」とかいうものをこえる全人類的加工法、人類の知恵でもあるのです。

現実の食生活にいろいろ問題が多いのは確かだが、その弱点をあげつらね、いいかげんな「論」を持ってくれば解決するかのような、非現実的な主張はすでに何度も繰り返され、しょせんグルメや誰かの儲け仕事の餌食になっているにすぎない。

つまりこういう「論」は、つねに非現実的な逃避か陶酔しかもたらさないのです。だいたいね、いまごろ、スローフードで懐石料理を見直すなんて、おかしいですよ。滑稽なアナクロ。化石を飾っておしゃべりしても、現実は何も解決しませんよ。

そんなことより、このアジの開き、これ「加工地沼津  原産国韓国」というものです。この現実を、どう考えるのですか、どうしようというのですか。これは輸入物でありますが、こういうものがないと困る事態に、すでになっているのですね。それに交通機関の発達で地球は狭くなって、よしあしは別にして「地球市民」とやらにとっては地球が地元のようなあんばいじゃありませんか。日本にいながら「本物のイタリア料理」に熱をあげられるほど。

地産地食の「スローフード」やりたいなら、まずはアジでも釣って、自分で開きをつくりなさい。それを、どんどん安く広めてください、おれは買いましょう。豆腐も大豆を買ってきてミキサー使えば比較的簡単につくれます。やって豆腐を安く売ってください、おれは買いましょう。それよりなにより「地産地食」をいうなら、いきなり近代的な交通手段のない山に入って生活しなさい。東京でぬくぬくしながら加工食品惣菜弁当グルメの大衆に説教がましい口をきくなんて爆笑ものです。

いまや大不景気で、いやでもスローな生活にならざるをえず大衆食堂で普通のめしをくえるだけでもマシというひとがふえている、インスタントラーメンなどの安い加工食品でしのがざるをえない。一方幸いにもリストラされなかったひとは仕事をやまほどかかえて普通に食事を食べる時間もない忙しさ。そういう大衆の現実でもあるのに、スローフードの主張などは太平楽なみなさまの高尚なレジャー、趣味としかいいようがない。ついこのあいだの「粗食騒動」のように。

スーパーの店頭は生鮮ものの品揃えは貧弱になり安い加工食品の大量陳列がふえた。

伝統食や郷土食を見直すのはけっこうだが、見直すことそのものが自己目的化されて、したがって理念と現実はまったくズレている、もっと大衆の現実の生活のなかで見直すべきだろう。ま、リッチとプアに二極分化するなかで、リッチのみなさんだけの話というなら、いうことはない。

ああ、頭にきて興奮暴発してしまった。また誰かに嫌われそう。また世間を狭くしてしまった。ふん、ま、いっか。

大衆食的索引