消滅録4 2001年5月21日版

大衆食堂 福住


ああ福住福住福住


閉店の日に男の涙涙涙




(2006年3月20日追記)

書き忘れていたが、この建物で、1997年10月の閉店退去直後、映画のロケがあった。つげ義春さん原作の「ねじ式」、監督は先年亡くなった石井輝男さん。映画の最初のほうで、主人公役の浅野忠信さんが登場するが、その場面は、この建物の2階を使って撮影された。短いワンカットだし、窓際が中心なので、部屋の全体の様子は、ほとんどわからない。

かなり傷んだ住まいの感じは出ていた。なにしろ、撮影のスタッフが全員上がれないのではないかと心配されたほど、実際に傷んでいたのだし、だからこそ撮影に利用されたのだ。製作の関係者の一人が、この近くに住んでいて、撮影場所に選ばれたのだった。映画は、1998年7月公開。

(2001年5月21日記)


大衆食堂 福住。写真は閉店直前の97年8月。

東京・江戸川区平井3-30の一角、JR総武線平井駅南口すぐそばの、終戦直後の闇市からはじまる横丁にあった。1997年10月末、現在この地にある21階建ての再開発ビル建設のため閉店、退去。

「平井の母」とよばれた優しい料理上手の鈴木末子さんが一人でやっていた。閉店のとき72歳。

末子さんは、いつもおだやかな笑顔をたやさなかったが、口の重いひとだった。自分の名前も、最初は「スイ」だといっていた。そのうち「スエ」になった。閉店後、彼女は千葉の娘さんの嫁ぎ先に身を寄せたのだが、それで郵便のやりとりをやるようになって、「末子」だとわかった。あまり歓迎されなかった誕生をおもわせるような名前に、彼女はいろいろなおもいを抱えていたのかもしれない。

話をするときに、東北なまりがあった。福島あたりかなと見当をつけていたら、閉店まぎわのころ、福島の「うどんそばや」の娘だといった。おれが「このうまいカレーライスの作り方はどこでおぼえたの」と何度かたずねた。その何回目かに、自分の実家は福島のうどんそばやで、店でカレーライスも出していた、それで覚えたのだといった。10歳のころから食べていた記憶があるともいった。

このカレーライスについては『ぶっかけめしの悦楽』に書いた。ジャガイモが半分か四分の一の大きさでゴロゴロ入っている、まさに「本物の黄色いカレーライス」である。人気があって、また末子さんも得意だったようで、週に一回は登場していた。このカレーライスだけがねらいで顔を出し、ないと帰ってしまう客もいた。

末子さんが平井に嫁さんで来たのは、戦後すぐのことのようだが、詳しくきけなかった。とにかく、その当時のご主人は、この場所より奥の三業地のあたりで、「あまものや」つまり甘味喫茶をやっていた。地名も、「平井」ではなく「逆井」だった。売春禁止法までは、両国や亀戸より賑やかだったところだ。そこを売って、駅近くのこの場所に移転したのだ。

アメリカ占領下、1949年8月31日に、死者135人をだしたキティ台風が関東を襲った。平井の一帯は高架の駅をのぞいて水没する大被害だった。移転は、そのあとのことである。建物の一階には、水が押し寄せて変色した跡が、大人の頭の上の位置にあった。

末子さんは、ご主人が、いつ、なぜ、亡くなったのかも話さなかった。閉店後どうするのか訊ねたことから、千葉のほうに娘さんが嫁いでいて、お孫さんもいて、そこに身を寄せることがわかった。

とにかくポツリポツリとしか話さない。自分のことは、ウフフンと笑って、なかなかこたえてくれない。建物は何度か増築したようだが、一階の食堂部分は、末子さんがひとりでやるようになってから、しだいに縮小されたらしい。コンクリートをうった土間に、四人がけの鉄パイプ脚のデコラトップの、昭和30年代型安物使い古しテーブルが三個、たてにならんでいるだけだった。隅に七輪があった。

魚屋の店先にあるような、ステンレスとガラスで出来ている、客席数には不釣合いに大きな特製のショーケースがあって、そこに、末子さんのつくったおかずがならんでいた。

入り口はたてつけの悪くなった、木枠のガラス戸だった。そこを開けると、すぐ左側に本体は建物の外にとびだしてベニヤで囲ってある2ドアの冷凍冷蔵庫があって、ビールや刺身などが入っていた。

客は、ショーケースのおかずや冷蔵庫の冷えたビールや刺身を勝手に取り出して食べる。この刺身が、いつもあるわけではなく、とてもうまくて安くて楽しみだった。近所の魚屋で買ってくるのだといっていたが、末子さんもこんなにうまい刺身はめったにないといっていた。おなじ東京でも、「下町」といわれる東京湾沿岸の地域に、いい魚食の伝統が残っているのだろうか。

ある日、輪切り大根の味噌煮をすすめられた。

ダシのきいた汁をたっぷり吸い込んだ大根だった。「うまい」というと、「そうでしょ、これはね、ちょうど鰹節を切らしていたから、シーチキンの缶詰を入れてやってみたのよ」といった。そのへんが、彼女の料理の才能なのだ。

ときどき顔を合わせる、いわゆる「労務者」がいた。もちろん日焼けし身体もがっちりしている。西郷隆盛の頭とあごをちょっとだけカットしたような、四角の顔に大きな黒い目の男だった。なんとなく宮崎あたりのなまりがかんじられた。

おれより若いはずだが、彼はおれを自分より若いとみていたらしい。おうような兄貴風に、会うと必ずビールをすすめられた。かといって会話というほどのものはなかった。彼は競馬新聞をみて競馬の話をして、酒を飲みめしを食べて帰る。

彼は、カネがないときは、ここでツケをしてしのいでいた。店によく来ては末子さんの買い物を手伝ったり一緒に銭湯へ行ったりする近所の友達おばさんが、そのツケをする現場にいあわせたことがあった。

男が出て行くとすぐ友達おばさんは、「だめよあんた、あんな男になんかツケを許したら」といった。末子さんは、例のウフフンという笑顔で、「大丈夫よお、仕事するには食べなきゃねえ、カネが入れば払ってくれるのよお」とこたえた。ここのところ、東北なまりの言葉で、独特のイントネーションがあるのだが、それを表現できないのが悔しい。

福住でネクタイをしたサラリーマンの客を見たことがない。印刷工、冶金工、鳶、あるいはネクタイなどいらない小さな町工場の事務員。40歳以上の独身男性が圧倒的に多かった。

たまたまチャンスがあって、『散歩の達人』の1997年12月号「横丁が消える日」で、この横丁の「消滅」をルポした。そこにもとうぜん福住は登場する。

10月31日が退去期限の日だった。そのまえの25日土曜日、ほとんどのひとが退去して、残っていたのは一割に満たなかった。おれは朝から取材を続け、最後の福住のめしを食べた。

末子さんは、いつものように黙々と仕事をしていた。そのように見えた。そしてポツリといった、「泣いてった男のお客さんがいたよ」

よくきくと、おれもときどき会ったことがあるが、会釈をかわすていどで、ほとんど口をきいたことがない、おとなしい40歳ぐらいの客だった。

邪魔にならないように入ってきて、邪魔にならないように食べていく、というかんじなのだが、週のうち3、4日は来ていたらしい。

夜遅くまでやっている飲み屋の最後の取材のため、末子さんと別れの挨拶をして外に出ると、真っ暗な路地があった。

おれは、このルポを、このように終わった。

ところで、解体がウワサになってから横丁を訪ねる客人が増えたそうだ。こういうところがなくなるのは、こんなにいい人たちがいなくなるのは、「さみしいね」「惜しい」「残念だ」と、みな同じことを言う。それを聞いた近所の常連おばさんが言った。「そんならもっと来てくれたら、こんなことにならなかったかもしれないのにさ、もう遅いのよ」

閉店が決まってからの新顔で込み合う福住で、この鋭い言葉を放ったのは、前述の末子さんの友達おばさんだった。

彼女は、福住がなくなって困るといってウロタエル常連男たちのために、近所にかわりの「安心の食堂」をみつけてきて教えてあげていた。


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