小鹿野町のうどんそば生活


埼玉県秩父市の西側に位置する秩父郡小鹿野町。うどんそばを、観念的な「男の料理」趣味ではなくて、生活にしている地域や家がある。長いあいだ、小麦、蕎麦、粟などの粉食が大きな比重をしめていた。

ここに登場する家庭は、小鹿野町の中心部から、さらにバスで40分ほど山奥だ。1970年代に、朝に米飯を炊くスタイルをはじめたが、夕食は手打ちのうどんそばが続いた。

いまでは老人夫婦二人きりだから、ふだんは朝炊いたごはんを一日中たべていることが多くなった。都会に出た娘が帰ってくると、かならず夕食にうどんそばをつくる。娘は、小さいころ、足でふんずけてうどんをこねる手伝いをさせられた。1980年に高校を卒業して、この家を出て行くまで夕食は、うどんそばだった。

主婦が昼の激しい肉体労働のあと、夕食のしたくに手打ちのうどんそばをつくるのは重労働だ。だから写真にあるような手動式製麺機が普及した。

米食の普及は、一方では山間の自然によりそった生活の没落でもあった。人びとは、林業や山地の畑仕事などでは食べていけなくなり、町へ勤め「賃金」に頼らなくてはならなくなった。そして、賃金生活と米食という全国画一的生活に組み込まれた。それは「都会的な近代的な生活」、「豊かな生活」といわれていたし、それに憧れ自らはまっていったということもあるだろう。その個人差はあっても、抗いがたい山村の没落を、米食はともなっていたのである。

米食の日常が豊かな優れた生活で、うどんそばの日常は劣った貧しい生活であるとする優劣観は、根深い歴史的なものでもあるが、とくに工業化による高度経済成長に国民を根こそぎ動員しようとするとき、有効だった。そのために過去の山村のうどんそばの「貧しい生活」に劣等感をもたされ、別れをつげようとする「自主的」な動きは加速した。それと米作農家優遇政策は一体だったのだ。

米作農家優遇政策は、まさに「米作」だけを対象にしたのであり、かならずしも日本の農業風土の「優遇」ではなかった。ついでに言えば、ちかごろ都会で米作農家の「甘え」と「贅沢」を許していると目の敵にされている、「米作優遇補助金関係」の多くは結果的に、土建業や金融業といった収奪機関に吸い取られて、都会優先の経済に還流していたのだが。

それはともかく、日本には米作に適さない土地がけっこうあり、そこで違う農作物をつくりながら生活していた人びと、それがあったから多彩な活力ある食文化が存在した一面があった。うどんそばは、そういう食文化を象徴するものだといえる。とつぜんだが、ラーメンもそうである。

小鹿野町には、うまいうどんやそばを食べさせる店がある。ちかごろは「職人風」「江戸風」の「洗練された」味をウリにした店もある、そんなこと気にせず地の味でやっているところもある、自分の家の庭先の小さな店で自分の家の手打ちをくわせるところもある。いろいろであり、いろいろがいいのだ。

土地のひとは、あまり店では食べないようだ。食べても手きびしい評価をくだす。「おいありゃうまかねえべえ」「ああうまかねえ、おらとこのほうがいい」。

自分の家のうどんそばがイチバンだと思っている人が多いようだ。都会の知ったかぶりの「うどんそば通」ではなくて、そういう生活によって、ここにはシタタカなうどんそば文化が生きている。ぜひ、こういう地で、うどんそばを味わってほしい。そして、「コメ」か「パン」かといった、仕掛けられた二者択一から自由になり、日本の風土に根付いた多様な活力ある食文化を構想したいものである。

ああ、大演説になっちまったぜ。

栗原精穀のそば粉栗原精穀の小麦粉

小鹿野町には地場の製穀製粉屋が残っている。「ナショナルブランド」モノではなく、こういう粉をつかう。これだけでも、なかなか得がたいすばらしいことではないか。

栗原精穀  埼玉県秩父郡小鹿野町大字小鹿野189  tel 0494-75-0395
力強くこねるほど味はよくなる

そばづくりは、小麦粉とそば粉の配合のぐあいから、ぬるま湯のさしかげんまで、それぞれの「家風」がある。ま、いまの実態は、作り手の主婦の嗜好が支配的のようだ。この家の主婦は、嫁にきてから約40数年間、ほぼ毎日うどんそばをつくってきたことになる。そのほかにも、まんじゅう、おやき……。しかも、この家のあるじはうどん好きなのに、主婦はそばが好きだから、いつも両方つくるのだ。たいへんだあ。


手でよくこねてから、機械を何度かとおして平らな板状にのばす、それを手回しカッターで切る。

そば作りには手際のよい作業が求められる。とくに打ちあがったそばは、すぐ大きな鍋でぐつぐつ煮立っている湯に入れて茹でなくてはならない。それら一つ一つの作業を満足のいくできでやるために、愉しみながらも気をぬかず興奮気味に作業はすすむ。「さあ、できあがるよ、湯の準備はいいか」「ああいいよ」「そらっ」「よしっ」。

うどんは、気合がはいっているときは、外のカマドで薪で湯をわかして茹でる。どちらも茹でたあとは、玉にして、平たいザルにのせる。こうやっておけば、翌日になってもうまい。うどんは、やや黄ばんだ感じで、しかし見事な光沢でしあがる。山の胡桃や胡麻をすり込んだ冷ッチルで食べるうどんそばは、うめぇうめぇ、である。それから、うどんの茹で汁で大根の千切りをさっと茹でて、うどんそばと一緒に食べる。こたえられない


勇壮な小鹿神社の祭

小鹿野町には祭りがたくさん残っている。なかでも小鹿神社の春祭りは、なかなか勇壮である。この神社は、明治の「秩父困民党決起」の集結場所になったことでも有名だ。こうした五穀豊穣(米だけではなく)を祈願する祭りとうどんそばの生活は一体だったのだ。

小鹿野町の中心部からバスに乗って数十分すると、倉尾神社のある倉尾地区に着く。山険しく谷深い、米作など不可能な地域だ。雑穀食、粉食の習慣が色濃く残っている。いまでは、わずか200戸ばかりの「山彦」たちの末裔である氏子によって、秋祭りが、山里の情緒も豊かに盛大にとりおこなわれる。なかなか厳粛な儀式に、奉納花火、奉納お神楽まである。しみじみよい祭である。これもうどんそば生活の文化といえるし、それは貧しいとか豊かだとかで評価すべきものではなく、われわれの歴史なのだ
しみじみよい、倉尾神社の祭

関東うどんそば逆襲協会