上野地下街を今のまま残そう会

2002年10月4日更新

もう古い町並みの文化と歴史は、さんざん破壊してきたのではないか。
そろそろ、破壊ではなく、大切なものを見つめ残し生かし伝えることを考えるべきではないか。

柳家とおかめ
立ち退きを迫られている上野駅地下、左[柳家]右[おかめ]、写っていないが左手前のほうに離れて[グラミ]がある。


お断り、お礼

下記のように、始まったばかりだったのですが、最新の情報によれば、三軒の食堂の退去は決まったのだそうです。どうも、お騒がせいたしました。ご協力のメールをくださったかた、ありがとうございます、感謝いたします。

どうもなんですね、こういうことは、日ごろから存続できるようにやっていないと、退去の裁判になってからでは、なかなか難しいものですね。いつまでもあると思うな、それぞれのくつろぎ。

上野駅には上野駅のやりようがあったはずだと思うが。見た目のコギレイな満足を急ぎ、背伸びしたコジャレを金で調達し、大事なことを失い続ける。これが「時代の流れ」なら、なるほど日本はおかしな流れの中にいる。ってか。

ここには、個人経営家族経営だからこそ可能な、商売と交流があった。この世は、大企業経営だけが全てじゃないのである。そもそも、ここの客には、大企業の社員の方も少なくなかった。これからも、スロー、スモール、ローカルの文化を大事にしていきたい。

2002年10月4日記

みなさん、「上野地下街を今のまま残そう会」の嘆願署名運動が始まりました。このような方法ではなく、文化国家・民主国家の国民と企業らしい解決をのぞみたかったのですが。そうはいかないようです。あまりこういうの好きじゃないけど、わたしも発起人に名前を連ねました、ご協力よろしくお願い致します。

まずは、下記、東日本キヨスク殿宛の「嘆願書」をお読みください。

2002年9月14日



上野地下街を今のまま残そう会

  平成14年2月上野駅構内は、見違えるようなファッショナブルな駅舎として生まれ変わりました。全国への玄関口東京駅が美しく賑やかなように、北への玄関上野駅も活気にあふれる街となることは素晴らしいことです。しかし、一方さまざまな歌にも詠まれ哀愁と人情にあふれた上野駅を、老若あわせ沢山の人々が懐かしみ今も愛しています。
  皆さん、上野駅地下街、たった60m位の地下街をご存知でしょう。ここに、昔からながらえてきた3軒の食堂があります。グラミ・柳家・おかめです。これらのお店が、閉鎖の危機に面しています。東日本キヨスクから、立ち退きを迫られているのです。小さな懐かしいお店たち。今も、北へ旅立つ人々、帰りついた方々、通勤・帰宅途中の止まり木を求める勤労者達が、一時の安らぎを求めて立ち寄ります。お店の方々と家族のように歓談し、隣のテーブルのお客さんとも、たちまち旧来の友のように親しくなってしまう。上野駅の片隅にこのような空間は、むしろ積極的に残した方が良いと思います。
  上野駅地下街の今のままを愛する私達"上野地下街を今のまま残そう会"は、下記のとおり東日本キヨスク殿に嘆願書を提出いたします。

■嘆願書

東日本キヨスク 殿

署名者一同及び発起人一同

上野駅地下商店街を今のまま残していただけるよう心からお願い申し上げます。


立ち退きどころか、ここに下町の上野駅らしい「人情食堂街」を復元したいものです。

エンテツから、みなさまに、お願い

この署名にご協力いただける方は、わたしにメールでご連絡ください。署名用紙をお送りします。

また、できましたら、[グラミ]などにお立ち寄りいただき、署名いただければ、なおうれしいです。

上野駅や地下食堂の思い出など、お寄せいただけたらうれしいです。このサイトに掲載したいと思います。

なるべくたくさんの方からご署名いただけるよう、みなさまのできることでご協力ください。こういう署名を行っていることを、周囲のみなさまにお知らせいただけるとうれしいです。

大衆食の会のみなさまには、署名用紙を発送します。ご自分の署名だけでもけっこうですし、できたらお知り合いの署名などいただけるとありがたいのですが、よろしくお願い致します。



賑わうグラミ

2002年9月13日夜。
この日も通勤がえりのひとで賑わう[グラミ]。平日23時まで土曜日17時まで営業。




また、去る4月15日の新潟日報のわたしのエッセイでは、つぎのように書きました。うれしいことに、これを読んで、新潟から[グラミ]を訪ねてきてくださったお客さまもいました。こうした人間交流を大切にする場や文化を、駅のようなより公共的なところにおいてこそ、残し伝えていく必要があるのではないでしょうか。

このような文化と歴史をはぐくんだ駅や鉄道を愛し後世に伝えたい。

上野駅「グラミ」……客とのつき合い深く

かつて上野駅には数えきれないほど食堂があった。そこで多くの新潟県人が旅の疲れを癒し、あるいは別れを惜しんだ。

上野駅大改造で、ほとんどはオシャレで実務的な飲食店に変わったが、地下の一隅にわずか、新潟県人との絆や人情を伝える駅食堂が残っている。

たたずまいも昔ながらの「グラミ」。ザーサイ、ニラなどがたっぷり入った塩焼そばが人気の店だ。初代店長の娘、五十八歳の藤井暎子さんにとって、ここは思い出の詰まった故郷である。

暎子さんが小さいころは、夜行列車を利用して上野駅に着くと朝食をとるひとたちが多く、食堂は早朝五時ごろから夜遅くまで賑わっていた。

そのころの縁で、家族同様の付き合いが続いている県人がいる。

丸山マチ子さん。新潟市沼垂の出身、千葉県木更津市に住む、五十八歳。半世紀も前のころだろうか、マチ子さんは兄と一緒に父親に連れられて上京し、朝食をすますと関西旅行のため東京駅へ向かった。しかし兄は迷い子になり、暎子さん家族が預かったのだった。

また、いま茨城県の方から野菜を納めている飯塚(旧姓小池)みよ子さんは昭和二十五年生まれ。十七歳のとき、故郷の関川村が大洪水に襲われ被害にあい、家計のためにグラミに住み込みで勤めた。狭い食堂のテーブルの上に寝て早朝の開店に備えたりして妹を大学へ。

さらに暎子さんの一人娘華さんは、石油ガス会社で六年間新潟地区を担当していたから、新潟県人との家族同様の付き合いがたっぷりあって、話はつきない。

こんな上野駅食堂ならではの人情物語が無数にあるはずだが、すべて駅の大改造で捨て去られそうな昨今である。

上野駅地下食堂街の消滅