新潟日報連載 36−40


36、おでん(02年10月28日

  おでんの話題は尽きない。「おでんは関西じゃ関東煮と書いてカントウダキというんだよね」と東京人が言うと、「ウチではおでんでした。関東煮と別に、大阪おでん京都おでんというのもあるみたい。どのみちコロが入ってなきゃおでんじゃないとウチの父は言ってましたけど」と、ある京都人。
  「えっ、コロって何?」「クジラの皮、脂肪が付いてるのをサイコロに切ったの、昔は安かったのですが、これが入るとコクが出ます」
  「そういえば、スジというの、関西と関東じゃちがうよね」「関西はスジといえば牛スジのことだし、関東じゃ魚のすり身」「それにしても、あの東京のチクワブってなによ、ねちゃねちゃして、よくあんなもの食べられるわ」と言うそばから静岡人が「黒はんぺんが入ってなきゃあおでんじゃないよ、いいダシが出るんだ」とわめき、福岡人は「やっぱ餃子巻だよ餃子巻!」と叫ぶ。
  黒はんぺんはイワシのはんぺん、餃子巻はゴボウ巻の中身が餃子のようなもの、東京には餃子巻はなくても同じようなシュウマイ巻ならある。
  とにかく各自の好みも加わり話は盛り上がる。
  そういう話のなかでフト思う、どうもわたしには、これがなきゃおでんじゃないというほどの小さいころからの主張がない。郷里の家でおでんを食べた記憶がないのだ。さてわが郷土的おでんの特徴は何だろうかと考えるのだが思いつかない。
  ところが、東京の有名なおでん屋に名を連ねる渋谷区の「ひで」に入ったら、鍋に大きな車麩が浮いてるではないか。おおっ、これこそと、初めて食べたおでんの車麩、ダシ汁をたっぷり含んでうまい。これからはこれがなきゃおでんじゃないと主張しようと、固く心に誓ったのだった。

写真=東京・渋谷「ひで」のおでん鍋には新潟県産の車麩が。



37、車麩(02年11月11日)

  麩(ふ)は、小さいころから「イヤ」というほど食べさせられた。とにかく、味噌汁の具に麩だけということが、よくあった。身体は温まるが、急いで食べると「アチッ」と口の中をやけどしたなあ。
  煮物というと必ず入っているのが車麩だった。それはごく日常的なものだと思っていたのに、上京してみたら、麩のなかでも車麩というのは形も独特だと思い知ったし、あまり食べるところを見ない。かなり新潟県的な食べ物に思えた。
  だから、その後の車麩料理は印象に残った。
  ひとつは、スキーで六日町の民宿に泊まったときだった。車麩がまるごと、真ん中に玉子を落し半熟ぐらいに煮たのが出てきた。わたしは煮物の具の一つとして、切った車麩を野菜と煮たのしか食べたことがなかったから、そのうまさに驚いた。まさに単独で立派な車麩料理だった。
  そして五年ほど前、ある雑誌の取材、東京は北区王子の秀楽という小料理屋だった。昭和二十二(一九四七)年生まれの女主人、中山文子さんが一人でやっている。彼女は、わたしが新潟県人だというのを知って、取材当日に車麩料理を作って待っていたのだった。これには久しぶりに新潟県人の血がかきたてられた思いで、うれしかった。
  文子さんが東京生まれだとは知っていたが、新潟と縁があるのでないかと聞いてみた。そしたら同居していた母方の祖父母が与板町の出身なのだ。その祖母のやりようを見ていた。さらに工夫を加え鳥のスープが効いたコクのある仕上がり。見た目はシンプルだがうまい。
  今回もそれを食べながら、「むかしは車麩の穴に荒縄を通して、そのへんにぶらさがっていたわよね」「そうそう」などと、いまはない故郷の家の台所の様子を思い出したりした。


38、ミカン(02年11月18日)

  一九九〇年ごろ、九州で仕事をしていたときだった。熊本県三角町で高岡オレンジ園を営む高岡廣美さんと出会った。
  ちょうど早生ミカンの収穫時期だったのだが、高岡さんは途方に暮れていた。五年間ぐらい苦労してそれまでのやり方を変え、無農薬有機栽培で育てたミカンがとてもうまくできたのに、「見た目が悪い」からと農協に扱ってもらえないのだった。その年末は高岡さんのミカンを売る手伝いをし、いまでも毎年それを食べるのが楽しみだ。
  最初に高岡さんのミカンを口に含んだとき、身体の感覚がスッと昔にもどった感じがした。それは舌の先から広がったものだが、確か、その味覚には長い間忘れていた、ぴったりの言葉があるように思った。「うまい」とか「甘い」といった表現では済まない味である。
  わたしは思い出そうとして思い出せないいらだちの中で何個目かを食べたとき、まさに空が晴れわたるように鮮明な記憶がもどった。
  それは「甘露」と表現されなければならない味だった。
  わたしが甘露という言葉を覚えたのは、小学校一年か二年の冬だった。同居したばかりの母方の祖母と、よくコタツに入ってミカンを食べていたのだが、いつも祖母は食べ終わると「ああ、かんろ、かんろ」と言った。その「かんろ」がわからなくて聞いたことがあった。祖母は「甘いという字に、露という字」だと紙に書き、人間がつくったものではなくて天の恵み、天然の露のしずくのようにうまいという意味なのだと言った。
  それでわたしは、甘露という言葉とその味を知ったはずだった。それを、いつしか忘れていた。それはまたミカンの味が甘露という言葉にそぐわないものになる歴史と一緒だったように思うのだが、わたしは高岡さんのミカンを食べて「甘露」という言葉とその味を思い出したのだった。
  あのころのミカンは木の箱に入っていた。

参考=当サイト「熊本県三角町、高岡さんのミカン」


39、チキンラーメン(02年11月25日)

  昭和三十三年(一九五八)、日清食品からチキンラーメン発売、一袋八十五c三十五円。
  「インスタント」という言葉を生活の中に定着させたのは、チキンラーメンであるといって差しつかえないだろう。インスタントラーメンといえばチキンラーメン、チキンラーメンといえばインスタントラーメンという時代があった。
  とりわけ戦後生まれの、もう「中高年」とよばれるようになった人たちには、故郷の思い出と共に祖母や母がつくってくれたチキンラーメンを懐かしがる人たちが少なからずいる。あるいは夕陽が差し込む畳の部屋で、おやつがわりのれを袋から取り出し、ポリポリかじりながらテレビに夢中の少年少女時代があるだろうか。
  「ときどきチキンラーメンが無性に食べたくなる。ちょっと鍋で煮込むと旨さは倍加する。鍋ごと、割り箸を突っ込んで畳にあぐらをかいて食べてると、中村雅俊主演の『俺たちの旅』を見たくなるな」と書いたのは、一九五七年生まれの「文庫王」岡崎武志さんだ。
  不思議なことに、チキンラーメンの味は、懐かしい情景と結びつきやすいようだ。うまいまずい、体によいわるいといった短絡的な「俗」を超越して奥が深い。
  がしかし、わたしの場合、どうも最初から相性が悪かった。最初がいつだったか、高校二年生だったような気がするのだが。食べると間もなく下痢だった。がしかし、それでも食べた。上京してからは、銭湯の帰りに酒屋で酒とチキンラーメンを買って、三畳の下宿でポリポリやりながら酒を飲んだ。のち、必ず下痢だったが、忘れられない。
  そしていまでも買い物のついでに、ときどきそれにスッと手がいく。台所の片隅にその袋があると、なぜか心が和む。チキンラーメンは、昭和三十年代という、今日では懐かしい故郷になってしまった時代の、風景画なのかもしれない。


40、クジラ(02年12月2日)

  クジラが普段の食卓から消えたのは、いつのことだろうか。
  ちょっと年表で振り返ってみると、日本が国際捕鯨委員会(IWC)に加盟したのが一九五一年。そのころ子供だった世代が、クジラの缶詰やベーコンを食べながら、アメリカンポップスやビートルズを聴いて成長する間に、クジラは学校給食にまで登場するようになったのだが、一方では徐々に捕鯨の制限や禁止が拡大していた。
  ビートルズが生まれたイギリスや活躍したアメリカの声高に押されるように、日本が商業捕鯨を中止したのは八八年。環境資源問題への関心の高まりがあったにせよ、政治が絡んでいなかったとは言いがたいだろう。この年、大手水産会社はクジラ缶詰から撤退した。
  そしてクジラは、懐かしさを込めて語られる食べ物になった。たかが、あのベーコンや缶詰や、あるいはクジラ汁やさらしクジラの酢味噌あえが、あるいは安い昼定食のおかずだったクジラの刺し身や南蛮焼きが、二度と口にできないか日常から遠い高価なものになった。
  ちょっとこれは、オールディーズの名曲とともに思い出し、感傷的になってしまう。おい、あんたらイギリス・アメリカさんよ、あんたら牛肉やめてみてくれよ、と感情的に泣き言の一つも言いたくなったりするのだ。もうかえらない青春のように、思い出すたびに懐かしく、食べられなくなったのが悔しい。
  ま、日本の捕り方や食べ方も、今だって世界中を食べ尽くしているといわれるぐらいチト放埓で恥ずかしく、そもそもそれでは食糧を政治戦略に利用されやすく、反省は必要とは思うが。
  クジラの大和煮缶は、冬には中の煮汁が固まって煮こごり状態になったのが、また格別にうまかった。あのころは酒が飲めない年齢だったが、いまは、それを肴に燗酒をやりたいのにやれない。


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