新潟日報連載 31−35


31、廿世紀梨(02年9月9日)

  春の「田植え休み」に対して秋の「稲刈り休み」があった。それぞれ一週間ぐらい小学校が休みになった。堅い言葉で言えば「農繁期休業」というもので、経済も食事も国内の農業に大きく依存していた時代のことである。運動会は、確か、その休みが明けたあと、深まる秋の気配が漂うころだったと思う。
  そうだ、あの運動会のころは、「イナゴ捕り」というのがあって、毎朝、児童会の班単位で田んぼのイナゴを捕ってから登校するのだった。田んぼは切り株だけ残りあぜには大豆がなっていた。そこにしがみつき朝露に体をぬらし動きが鈍いイナゴがいた。それをつかまえては手ぬぐいで作った袋に入れて登校し、校庭にあるドラム缶のようなゆで釜に入れるのである。売ると貧困な学校費用の足しになったらしい。運動会の日には、その釜が校庭の隅にあった。
  そして、あのころは町内の圧倒的な家庭に小学生がいたから、運動会というと町中がお祭りみたいなものだった。校庭のトラックの周囲には朝からゴザをひいて家族親戚一同が折り重なり、声を張り上げての応援もにぎやかだった。
  わたしは小学生のころは運動が苦手で競走はいつもビリだった。その日もビリで走っていると父と母が手を振り大声を出していた、その姿と、廿世紀梨(にじゅっせいきなし)にガブリかぶりつく快感が一緒なのだ。
  運動会の日には特別の弁当を親が用意してくれて、おかずには玉子焼きが必ずあって、ほかに何か、いまふうに言うとデザートというかんじで果物が付いていた。ゆで栗のときもあったように思うが、廿世紀梨の記憶だけが鮮明だ。
  実を保護する袋に印刷された「廿世紀」という字が最初は読めなかった。
  真っ青な秋晴れ、体はすこし汗ばんでいて、あふれ出る汁ごと飲み下すそれは、この上なくうまいものだった。


32、アケビ(02年9月2日)

  スーパーの店頭でアケビを見つけるたびに考える。どんな人が、どんな理由で買って、いつ、どこで、どう食べるのだろうかと。どうもイメージがわかないし、買う気が起きない。
  そもそも、アケビなどというものは、家の中で食べたことはない。採った山か、とにかく屋外で、大きな口を開けてガブリ、中の実を口に含み、むぐむぐもぐもぐと、たくさんの種の周りの皮のような肉汁をしゃぶるように食べる。そして、巧みに種だけを残し、最後にプッと勢いよく吐き出す。その種の量が多く、飛散すること。どう考えても、家の中で食卓の皿などに向かって、姿勢を正して食べるようなものじゃない。
  アケビは山になっているものをタダで採って食べていた。ほかにも季節によって、タダで採って食べていた実が、いろいろある。
  桑の実、野イチゴ、グミ、ナツメ、クリ、クルミ、山ブドウ。所有者がいたものもあったのだろうが、自由に採って食べても問題は起きなかった。
  桑の実や野イチゴや山ブドウは、採りながら食べ、さらに持ち帰って食べようと、ポケット一杯に詰め込む。ところが、家に帰りついたころには見事につぶれていて、衣服の色が変わっているということがよくあった。
  アケビは町の東にある坂戸山。上杉景勝と直江山城守生誕の地といわれる城址なのだが、その生誕の碑がある一本杉の周辺でよく採って食べた。
  小学五年生か六年生のある日には、いつも一緒に遊んでいる近所の連中と、わたしはカメラを持っていき、ススキの中に腰を下ろし、アケビをまさに食べようとするところを写真に撮ったりした。
  なんといっても、あの、最後に種を、ところ構わずプッと吐き出す快感も味わいだった。スーパーで売るようになって、食べ方も変わったのだろうか。


33、育ちの味?(02年9月30日)

  わたしは新潟名物の「イタリアン」を知らなかった。最近、新潟市在住の方が管理人のホームページで知った。
  とても面白い内容で、著者は「新潟グルメ計画 イタリアンこれぞ新潟の味」と熱く熱く語っている。「スパゲティ風焼きそば」ということだが、彼がそれを故郷の味と気づくのは上京したときなのだ。
  「オレが東京に出たての頃、仲間にイタリアン食いに行こう、と言って、『何それ?』といわれたことがある。
  オレはその時までイタリアンてのはマック同様日本全国にあってどこでも食える物だと思っていたのだ。そしてその日から幾日か経って初めて新潟にしかないことがわかったのであった」。ふーむ、そういうことってあるよなあ。
  故郷の味はややこしい。自分が食べているものはみなが食べていると思うこともあるし、子供のころから食べ続けていると、何でも故郷の味と思い込んでしまうこともある。その一つが、わたしにとってはサンマである。
  実は、これは初夏のトビウオと一対といってよい。いま店頭でトビウオやサンマを見ると、すぐさま気分は懐かしい故郷の初夏や初秋へジャンプし、そこに七輪があってそれを焼く香りが漂っているのだ。
  だけど、わたしの郷里は生魚とは縁遠かった地域である。故郷のモノとは言い難い。だから余計、印象に残ったのかもしれない。
  とにかく全国の皆さんにとってもトビウオとサンマは故郷の味であると思っていた。しかしそうなると故郷の味とは、単に昔から食べ慣れた味ということになるではないか。その意味ではこのイタリアンの話もわたしのトビウオもサンマも同じだろう。そういうものがけっこうありそうだ。
  もしかしたら「育ちの味」と言うべきか。サンマを食べながら考える今日このごろなのだ。


34、ニギリメシ二題(02年10月7日)

  本当は、ニギリメシでシアワセな気分は数え切れないのだが…。とにかく腹がすいたらニギリメシという時代のことだ。
  小学校入学前は、母の家族がいる東京へ行くのに、塩で握ったニギリメシを新聞紙に包んで列車に乗り込んだ。そのときは理由は覚えてないが、上野駅に着いてから食べることになった。
  人込みの中を片方の手は母の手を握り、片方の手でニギリメシを持って歩きながら食べた。上野駅の構内を出て上野公園に入る階段を上がるころには、周りは当時の言葉でいえば「浮浪者」でいっぱいだった。
  皆の目がわたしのニギリメシを見ていることがわかった。と、その中から一人の同じ年ごろの子供がわたしに接近するや、あっという間もなくニギリメシを持つ手をたたいた。地面に転がる白いニギリメシ。子供は素早く拾い胸に抱え、わたしをにらみつけた。わたしもにらむ。母がわたしの手をそっと引っ張り、「まだあるから」とささやいた。子供の顔と食べかけの塩ニギリは、わたしの記憶に刻まれた。
  小学校に入ったころ東京の母方の祖母たちが引っ越してきた。おやつは毎日のようにニギリメシだった。簡単に塩ニギリか味噌ニギリである。その日も腹をすかして家にかけこんだわたしは「なにか食べたい」と叫んだ。祖母が笑顔で味噌ニギリを作り、差し出した。
  わたしは「何か食べたいんだ、そんなもんじゃない」と手を振り回した。それでも祖母はわたしの手にそれを渡そうとして、そしてそれを振り払う格好でわたしの手がぶつかり、ニギリメシが床に転がった。
  祖母の血相が変わった。その顔のすごいこと半端ではなかった。わたしは本当に人が怒ると目が三角になると一瞬のうちに知り、素早く逃げた。その祖母の顔と床に転がった味噌ニギリは、わたしの記憶に刻まれた。


35、コンニャク(02年10月21日)

  おでんに酒という季節になった。
  おでんは地域や家庭によって味やタネに違いがあって、それぞれウンチクがあると思うが、いわゆるコンニャク田楽で酒を飲むというのは、なかなか良い。ということを知ったのは、じつは近年のことである。
  コンニャクは子供のころから食べ慣れているが、「おふくろの味」だの「ふるさとの味」だのという郷愁はわかないし、味をうんぬんするような食べ物じゃないと思っていた。
  ところが数年前、埼玉県秩父市の北に位置する小鹿野町の奥地の一軒で、自家製手作りのそれを食べて、ほんのりとした甘みを含んだうまい味を知った。
  特に群馬県などは有名だが、関東周辺の山地ではコンニャク栽培が盛んで、自分の家でその芋からコンニャクを作るのは珍しいことではなかったのだ。
  小鹿野町の店ではコンニャク芋を見かけるし、ちょっと歩いているだけで、見るからに自家用という感じで畑の一隅に植わっている、南の国の木を盆栽にしたような独特の姿のコンニャクに出会う。
  つい最近も、その風景を見ながら思ったのだが、そもそも畑になっているコンニャクを知ったのも新しい。記憶にある郷里の畑にはなかったと思うし、あるいは以前にどこかで見たことはあるのだろうが、それがコンニャクで、地中に原料となる芋があると思って見たことはない。
  田楽で食べるときは、味噌ダレにユズやゴマを加えたりで変化を楽しめるが、うまいコンニャクなら、刺し身にしても、さっと甘辛く煮ただけでも、良い酒のツマミになる。
  しかし、うまいコンニャクにめぐりあうのは、うまい酒に出合うより難しい時代でもあるようだ。

参考リンク=自家製手作りコンニャク


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